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小説の影響

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月17日(月)16時11分27秒
  たくみさん、こんにちは。

古典的な偉人についての話の具体例のうち、私はたまたま小説家であるフローベールを取りあげました。しかし例えばそれは福沢諭吉であっても主旨としては同じことなのです。

また小説の影響については、政治・経済的イデオロギーと比べてより小さなものかについては、個々のケースやものの見方によっても変わってくると思います。小説は言語と(社会的な)物語そのものを直接に取り扱うので、その影響は表層的なものではなく、根源的・基礎的なものになります。

例えば言語の側面に関して述べますと、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ言語においても現在の日本語においても、自然発生言語というよりも近代化の過程で人工的に作られた言語である性質が強いです。特に書き言葉は意識的・人為的に作られた性質が強いです。それは江戸時代以前の日本語文献と現代の我々の書く日本語の文章がいかに異なったものであるかにも直接的に現れています。そしてそのような新しい言語を確立するのに小説は中心的な役割を果たしています。

それから社会的な基礎的な物語について述べますと、これは小説だけが作り出して来たものではありません。しかし小説(物語)が中心的な大きな役割を果たして来ていることには違いがないと思います。例えば現代の我々の多くは人生のなかで恋愛というものの大きな課題について悩んだり苦しんだり、時にはそれが人生の醍醐味であるかのように捉えながら生きて行きます。ところが冷静に歴史を振り返ってみますと、こうではなかった時代・社会というものはたしかにあったと考えることができます。現代の我々一人ひとりは自由恋愛を通して各自の伴侶を得て、愛によって結ばれるという(社会的な)「物語」を無意識のうちに刷り込まれています。だからこそ、我々は恋愛をするのが当たり前で、良い恋愛をしなくてはならないと思い込んで生きるのです。そのように人間の思考や行動を基礎的に規定し影響をあたえる「物語」において、小説(神話などの物語を含む)は政治・経済的イデオロギーよりも意識のより深い層につながっていると思います。

深層心理学の世界では認識の知的な理解の層とより深い層とを区別しています。知的な理解の層は言語を用いた概念によって頭のなかで理知的に把握するような理解の仕方です。しかい人間はより深い層での認識システムをもっており、むしろこちらのほうがより強く根源的に人間を捉えています。それはユング派では「心像」の層として語っています。

知的な理解というのは例えばM・L・フォン・フランツというユング派分析家のクライアントで、知的な男性のかたがいたそうです。彼は自分婚約者の話をしばしば語ったのですが、どうもその相手の女性には重度の精神病を抱えているようである。それでフォン・フランツはあるとき勇気を出して、彼にあなたの婚約者は重い精神病だと思うと自分の所見を伝えます。しかし彼は事も無げに私もそうだと思うと言います。自分でも不審に思い、本で勉強したから、それがどんなものだかはわかると言うのです。この青年の理解は、分析家であるフォン・フランツにとっては「まったくわかっていない」ものでした。

政治・経済的イデオロギーはたしかに直接的で目に見えやすい形で影響を表します。しかしこれは意識レベルでみれば、まだ表層の部分、知的理解の水準での影響になります。したがって60年代には一気ににわか的にマルクス主義への傾倒が広がったのに、その政治の季節が過ぎてみれば、それは個人の精神に深く根付くことなく、容易に過ぎ去ってしまうことが起こります。

とはいえ個々の小説が社会的な大きな(あるいは基礎的な)物語の部分にどれくらい深く影響を及ぼしうるのかについては、具体的に表すのが難しい面があります。しかし例えば、フロイトがマルクスのように影響を与えたのだとすれば、フロイト及びその心理学に、文学が直接的な影響を及ぼしていることも考慮する必要があろうかと思います。「エディプス・コンプレックス」はギリシャ悲劇の『オイディプス王』になぞらえたものですし、フロイトはシェイクスピアやゲーテなどからも深く影響を受けています。
 
 

フロイトとマルクス

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月17日(月)14時54分17秒
   ヨムヨムさん、こんにちわ。
確かにある種の小説にフロイトなどの影響があることもあります。
そして、フロイトが古典的な偉人であることは間違いありません。

 しかし、フロイトは小説家と違って、実際のというか現実のと言うか、
良きにつけ悪しきにつけ様々な影響を与えました。
その影響の与え方は偉大な小説家よりも、マルクスに引き比べるようなものだと考えています。

 マルクスの場合、その後のソ連や各国の共産党への影響があります。
もちろん粛正やシベリア送りはマルクスの責任ではなく、それを行った当事者たちの責任でしょう。
しかし、当事者たちの思想的な影響という意味では、まちがいなくマルクスから影響を受けています。

 同様にフロイトの影響も、小説家が与えた影響とは異次元の力をもっていたと考えます。
これはフロイトの責任と言うより、心理学が政治に巻き込まれたせいかもしれません。
そこまで大きく広げなくても、精神病など扱いも近代になると随分と変わりました。
ボクはこの分野の専門家ではないので詳論はできませんが、心理学や精神病の世界はとても恐ろしい側面をもっています。
ヒステリーに対するフロイトの対応は今でも理解できません。
そんなことで、フロイトには距離を取って否定的な見方をしてしまいます。





 

古典的偉人について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月16日(日)15時43分52秒
  たくみさん、こんにちは。

私は特にこの五年ほどから趣味で小説を読むことが増えてきました。一人の作家の作品を読む限りではよくわからないところがあり、関連を指摘されている他の作家の作品なども読んでいくうちに、次第にそうした小説作品にユングやフロイトの心理学からの影響があるように感じはじめました。そのためユングやアドラーやフロイトについても少し勉強してみようと思いたちました。

たしかにフロイトの男児が去勢不安を抱くとか女児がペニスに嫉妬するといった辺りの学説については、(そういう事例が無いとは断言できないにせよ)一般的に当てはまるものだとは考えにくいですね。

ただ私の中ではフロイトはフローベールやら夏目漱石やら福沢諭吉などといった半ば古典的な偉人の一人という位置づけにあります。フローベールにしろ夏目漱石にしろ福沢諭吉にしろ、私に敬意を抱かせるに充分な業績を残していますが、彼らの著作に触れると、けしてこららの人々の業績や人格に現代的な観点から見ても落ち度がないという風には思えません。やはりどこかしらおかしなところや、立派でないところが見られます。

しかし例えば現代的な小説作法のようなものと照らしてフローベールの小説に時代遅れな点を感じることがあるにしても、「それだからフローベールは読むに値しない」と私が考えるとすれば、私は近代小説からほとんど何一つ学び取ることができなくなってしまいます。そのため権威を盲信することは警戒しつつも、ここから何が学べるだろうかという興味を持ってそうした作品と向きあうようにしています。(とはいえ昔の小説はやはり苦手です)

「河畔望論」と言うコーナーについてのご紹介とお誘いありがとうございます。そういわれて改めて考えてみますと、何をどんな風に書いたものかさっぱりアイデアが浮かびません。深層心理学についてはまだ私も初学者の部類でよくわからないトピックについてのネットで検索するのです。その際にとても詳しく体系的に信頼性の高い情報を載せていると感じられて関心しながら読んでいますと、たとえばユングですと、結構、河合隼雄さんの著書の内容を要約したものをそのまま掲載しているような場合が多いです。私がユングやフロイトについてのレビューのようなものを何か書いてもそれと同じようなかたちにしかならないように思います。この件については何か書いてみたいトピックが無いか考えてみようと思います。
 

提案です

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月16日(日)11時54分31秒
  ヨムヨムさん、こんにちわ。
 フロイトとユングを丁寧に読んでいらっしゃるようなので、両者の違いなどとても興味ある指摘です。
ボクはフロイトはともかく、ユングはほとんど読んでいません。
そのため、発言が躊躇されます。

ところで、フロイトの精神分析に関して、些か疑問をもっているのは最初に書いたとうりです。
我が敬愛する吉本隆明が「共同幻想論」で
< どんなに多数の男性と性関係を想定したとしても、ひとりの女性はじぶんの産み落とした子供の父親が誰であるか確実に知っているはずだ。P151>と言っていますが、
この文だけはどうしても信をおけません。
彼からは多くの影響を受けましたが、影響を受けたに留まっています。
 フロイトも同様で、ペニス欠損の件は信じることができません。
フロイトの場合はこの一事をもって、距離を取ることになってしまいました。
PTSD概念もペニス欠損で女性の心理を説明するのと同じ構造のように感じるのです。
去年の引っ越しでフロイト関係の本を処分してしまったのですが、
心理学に深入りしない気持ちの表れだとお考え下さい。

 ヨムヨムさんに提案なのですが、当サイトには「河畔望論」と言うコーナーがあります。
http://coolboy.org/000-guest.htm
ここではお客様に持論を書いて頂いています。
フロイト論かユング論を書いて頂けませんでしょうか。
やがて消えてしまう掲示板だけでは勿体ないように感じます。
 

ユングとフロイト

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月15日(土)20時36分58秒
  ユングやフロイトに関する本を読んでいて私が個人的に興味深く感じるのは、ユング派の著者はユングの人柄を感じさせるところがありますし、フロイト派の著者にはフロイトの人柄を思わせるところがあることです。やはりそれぞれの学問の創設者を尊敬する想いが彼らを自然にユングやフロイトへ心理的に同一化させるところがあるのでしょう。

ユング的なものの見方は(決めつけをしないという意味で)柔軟性があり、肯定的で、かつ説得力のあるもので、深層心理学的な観点としてはこれ一つで良いのではないかとさえ感じました。ただユングの長所であり短所でもある点は、ともすると無意識の治癒力を肯定的に・理想主義的に捉えすぎているかのような印象のあるところです。

フロイト的なものの見方は19C的な啓蒙主義的合理主義の影響下にあって、(当初は)科学万能思想に取り憑かれているかのような傾向を感じます。論理的、実証的に、患者の症例を観察するのですが、そこからもっともな説明の理論が立ち上がると、「そうでない場合もある」可能性の事は忘れてしまって、全員がエディプス・コンプレックスを経験する、という風に決めつけてしまうところがあります。これは単にフロイト個人に責任があるというよりも、当時は19C的な機械論的自然観の影響で、誰もが人間の心理もまた機械のような単純な原理で法則的に説明であるに違いないと考えていたからだと思います。

フロイトの知性は科学的で、予断を排して疑うことによって真理へ迫ろうとします。このため様々な発想がネガティブに偏るのですが、一方でこうしたネガティブな懐疑を徹底することによって初めて独創的な人間観を獲得することができたのでしょう。さきほどユングだけで十分であるかのように書きましたが、フロイトの理論を読むと(常にそうであるとは言えないにせよ)、フロイト的な見方をしなくては正しく実態を理解することのできないような事例も多くあるように思います。

しかし私個人としては、「すべてがこうである」と決めつける傾向の強いフロイトよりも、「こうではない場合ももちろんある」ことを前提にしているユング的なモノの見方のほうが全体的には共感の度合いが強いです。

例えばフロイトにおいては「森」は「陰毛」を象徴する、というように、基本的に1対1の関係性を想定します。しかしユングにとってフロイトの認識は記号に過ぎず、象徴はそのような1対1の置きかえができるものではなく、個々のケースによって中味が事なり、かつその意味内容はこれと断定のできない広がりを持っています。

柔軟性にかける硬直的な理論は、妥当する事例に関しては優れた効力を発揮しますが、妥当しないケースに関しては間違いの元です。フロイトの孫弟子にあたる小此木啓吾さんの著書の文体においても、「フロイトが~を明らかにした」という書き方が多いです。そのように言ってしまうと、そうでない場合を排除してしまう事になるので、ユングの孫弟子に当たる河合隼雄さんなどの著書ではなるべくそうした物言いを避けているように見受けられます。こうしたところにも、ユングとフロイトの人となりが現れているようで、興味深く感じています。
 

「偽りの記憶」騒動について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月15日(土)17時10分46秒
  たくみさん、こんにちは。

フロイト派の「偽りの記憶」に関する副作用についてです。私は以前にこの件に関する報告の書籍をたまたま図書館で見つけて読みました。それで具体的な書籍のタイトルを思い出せなかったのですが、手元にある書籍におそらくこの件に直接関連していると思える箇所が出て来ます。

それは小此木啓吾さんの『フロイト』で語られています。当時の医学界ではヒステリーは女性特有の病で未だ子宮病だと認識されていました。まともな治療技法もほとんど存在せず電気療法や催眠療法が実践されているだけでした。フロイトは当初この二つの療法を用いて診療に当たりますが電気療法のほうはまったく当てにならず、催眠療法も患者によって効果が安定しないなど限界の大きな療法でした。そのためフロイトはこうした初期の療法から離れて自分独自の精神分析を確立していくことになります。

そしてその理論も初期に提出した内容の誤りに気づいて自ら訂正していくことになります。フロイトの診療したヒステリー患者たちは治療の過程で過去の辛い記憶について語りはじめ、多くは幼児期に親から性的な被害にあった話を語りました。そのためフロイトは当初、性的外傷説を唱え、神経症は子供の頃に親によって性的被害にあった記憶の抑圧が原因で起こると主張しました。しかしその後、ヒステリー患者たちの証言の多くが信憑性に欠け空想じみていることに気づき、それが実際にあった記憶の回復ではなく自己の性的本能を親に投影したものであると考えるようになります。フロイト自身は性的外傷説から性的本能説へ学説を変えています。

(私の読んだ報告では)主にアメリカで報告された偽りの記憶被害においては、治療行為のなかで催眠療法が取り入れられ、患者に対して幼児期に親から性的虐待を受けたという偽りの記憶が刷り込まれたとしていました。これは療法の面でも、理論的な面でもフロイト自身のせいで起こった副作用ではないと考えられます。
 

心とは

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月10日(月)18時56分11秒
   ヨムヨムさん、こんにちわ。
たしかに「心」の問題は難しいですね。
ボクは心とは脳内の思考回路の問題だと思っていますが、
予感とか夢のように言語外のものをどう捉えるかは難しいですね。
それでも認知症になった人でも母語を忘れないので、やはり言語の問題ではないでしょうか。
とすれば、いつの日にか解明できるようにも思いますが……。
たくみ
 

宗教と心理学

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月10日(月)17時16分59秒
  宗教に対する捉え方はフロイトとユングとの間で大きく違うようです。フロイトは主に無意識の否定的側面に注目しましたが、ユングはむしろ肯定的側面に注目したところにも両者の違いが現れています。

例えばフロイトは患者の神経症の元となっているコンプレックスを解消すべき否定的なものと見なしますが、ユングはそのコンプレックスが解消され自我に統合されることはその患者の人格的な成長と見ることができ、その意味でコンプレックスや神経症そのものにも否定的な面だけではなく肯定的な価値が潜在していると考えます。

こうした両者の違いが宗教観にも表れるようです。フロイトは宗教を否定的に捉えましたがユングは宗教的な要素のなかには人が無意識的・本能的に求めるものがあるのだろうと考えます。患者を診察していても、合理的な人の自我(人格)が宗教を否定的に捉えていても、反面その人の無意識では宗教的な儀式や象徴性の核に触れることを強烈に求めるような潜在願望を示すことが少なくないということです。

こうした事は我々日本人には特に感覚的にわかりやいものかもしれません。特に宗教的な信心をもたない多くの人々がお正月には何となく神社へお参りし、お賽銭を投げ、神様に頭をさげてお祈りします。
 

医学とは何か

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 9日(日)22時27分45秒
  そこで医学という学問について考えて見ると、これもまた一種の技術的な学問であると言えます。工学と同じで科学的な知見を応用した技術についての学問であるということです。

医学は人体の病を治癒する事を目的としますが、人体には一つとして同じものはありません。実際には同じ働きかけに同じ反応を返す個体は存在しません。しかしデータを集めて平均値を取ると、「この年齢のこの性別のこの民族の健康な個体はおおよそ、このような刺激を与えれば、こうした反応を起こす」ことはわかります。

そうした明確に可視化・数値化できる部分は明らかにし、見えないところや直接分からないところは、仮説を立てながら試行錯誤して技術的な解決策を模索します。これは臨床だけでえはなく、医学の基礎研究においても同じことです。

心理学も医学や工学のような技術的な学問(および技術のための理論的解釈の学問)ですが、ひとつ大きな違いは深層心理学は反証可能性の無いところまで仮説を進めることがある点かと思います。そもそも、心の存在証明を待たずに心理の研究をするわけですから、反証可能性を完全に満たせというほうが無理ではありますが。

しかしこれを医学の一分野であると捉えれば、その理論の全てが反証可能性がどうであるかという問題よりも、漢方のように実際に人の病を治したり健康を増進するのに役立てるかどうかのほうが重要であると思います。もちろん怪しい民間療法であってはなりませんから、実証主義的な学問である必要はありますが、フロイトやユングの研究にはそうした科学的な姿勢があると思います。
 

チューリング・テスト

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 9日(日)16時51分35秒
  おそらくたくみさんもご存じなのではないかと思いますが、科学と心の関係について考える際に私がしばしば思い起こすのは人口知能の分野のチューリング・テストです。

これはどのような条件を満たせば人工知能が成立したと見なせるのかを問題としたテストで、ある被験者とのコミュニケーションにコンピュータを用います。その被験者はコンピュータ画面越しに誰かと通信をすることになるのですが、その相手が人間であったり、コンピュータであったりする訳です。この場合、良くできたコンピュータ・プログラムほど自分が人間であるかのように被験者を欺くことができます。

このテストからは様々な問題を考えることができますね。極端な話、自分が誰かと会話していて、そこに相手の心の存在を感じ取るとします。しかし(理論的には)それはよく出来たプログラムが機械的な返答をかえしているだけでそこに心はまったく関与していないかもしれません。

そうすると人間の心そのものが機械的な(少々複雑な)プログラムに過ぎないのだと考えるような科学者も出て来ます。しかし本当にそうだと科学的に主張するためには、論証するか、実証しなくてはなりません。そうなると、哲学的な・形而上学的な領域に議論がはまり込んで行くために科学的な研究は延々と進まないかたちになってきます。

このため工学的・技術的発想をする立場からは心を学問的に取り扱うのは難しくないのですが、科学的な学問として心を取り扱うのは非常に問題を抱え込むことになるのです。
 

科学と学問

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 9日(日)15時19分9秒
  >さて科学とは、ある一定の条件下で再現できる、もしくは追認できる論理の体系を追求するものだ、とボクは考えています。上記のように考えると、科学は数学と理論物理くらい、大甘に見ても自然科学系しかないということになりますね。

そうですね。ですから複雑系科学など現代の科学は従来の科学の定義を満たせなくなっています。物理学ですら普遍的な真理であるとは言えなくなっていますね。

>もう一度心理学に戻ると、心の動きは脳の中の何らかの物質の働きでしょうから、心の動きを解明する科学は成立すると思います。

この点が科学的には非常に難しいのは、科学は方法的懐疑にしたがって間違いが入り込み得る可能性を厳密に排除しながら、真理を積み上げていなくてはなりません。これは技術的な妥当性や合目的性を達成すれば構わない工学的な学問とは違うところです。

心は人間の解釈の産物です。天体に喩えれば星座のような概念です。私たちは人間の表情の動きや行動を見て、そこに人間の心を感じ取ります。しかし私がAさんをなんて意地悪な人間だ(Aさんの心は意地悪)と解釈したとしても、Bさんはその正反対の解釈をしているかもしれません。結局のところ、純粋に科学的に見えれば、たしかに我々が見たと主張できるのは、人間の外面に現れた表情なり、行動であって、人間の心そのものを私たちはバイアスを抜きにして観測することはできません。

そのため「心」は科学的に存在することを立証できないと考えられています。いわゆる行動派の心理学者たちが自分たちの研究を純粋に科学的な学問だと主張するために、私たちは行動を研究しているのであって(存在しない)心を研究しているのではないと主張するのはこのためです。(哲学では心どころか、目の前に見えている人がたしかにそこに居ると言えるのかどうかすら、疑って確かめなくてはなりませんから、その意味では科学はまだ疑い方が緩いですね)
 

科学と学問

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月 9日(日)07時04分38秒
   知的な刺激の場にすることに賛同くださり、感謝です。

 さて科学とは、ある一定の条件下で再現できる、もしくは追認できる論理の体系を追求するものだ、とボクは考えています。
これは一定の条件下では100%の再現性をもっている必要があります。
それに対して、学問とはもっとずっと広いもので、考えること自体と言ったら良いか、現実を自分なりに解釈して一種の法則性のようなものを導き出すことでしょうか。
この法則性は100%確実でなくてもよく、それなりの有効性があればOKというのが学問でしょう。

 上記のように考えると、科学は数学と理論物理くらい、大甘に見ても自然科学系しかないということになりますね。
ボクは建築の設計を生業にしていますが、建築でも構造力学は科学(工学か)でしょう。
しかし、建築の設計=デザインはとても科学とは呼べません。それでも構造屋さんより建築デザインをする意匠屋のようが、はるかに大きな顔をしています。
通常、建築家といえば構造屋ではなく意匠屋のことを言いますから、ご想像がつくと思います。

 もう一度心理学に戻ると、心の動きは脳の中の何らかの物質の働きでしょうから、心の動きを解明する科学は成立すると思います。
しかし、フロイトやユングのやったような手順では、学問とは言えても科学とはとても呼べません。
科学というのは人間への適否を超えて、もっと無色というか人間との利害関係とは無縁のところにあるように思います。

 そこで心理学は学問である、としておけば良いのではないでしょうか。
ボクは宗教も学問に含めますので、心理学に頼るか、宗教に頼るかは、あとは各人の価値判断の問題になります。
宇宙に神が存在すると考えると、心の苦悩が解きほぐされる人たちがいます。
オウムのように危険なものまで含めて、新興宗教は人間存在を深く問うています。
ではまた。
たくみ





 

純粋科学と理論限界

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 8日(土)19時11分18秒
  それから以前は科学は普遍的な真理だと考えられてきましたし、普遍的な真理であろうと試みられて来ましたが、現代ではこのあたりの認識は大きく変わってきたのではないかと思います。

普遍的であるという概念は、時間的にも空間的にも制約を受けない一般性が認められることを意味しますね。

かつてニュートン物理学が万能であると信じられていた頃には、文字通りニュートン物理学こそ森羅万象を説明する唯一の普遍的な真理であると多くの科学者たちは考えていました。しかしこんにちは、ニュートン物理学にも相対論にも量子論にも、それぞれ、それが妥当する理論限界が存在すると見なされていますし、それぞれの理論の世界観に矛盾がある、つまりそれらの個々の物理学はあくまでも物理世界に対するそれぞれ異なったモノの見方であるに過ぎないということが認識されています。

そのようなモノの見方の違いは、深層心理学の各派の間にも見られるものです。しかし人間の心の仕組み・構造に関する理解の仕方が各派によって異なるとはいえ、それがそのまま各派の心に対する理解の仕方が出鱈目であることを意味しないと思います。その事は各派の理論と心理療法の実例を読んでいると強く感じます。
 

科学観について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 8日(土)17時31分52秒
  この点についても認識の差異を埋める必要はないのですが、たくみさんのとの間で漠然とモノの見方が違っている大きなポイントは科学という学問に対するイメージのように思います。

私ももうずっと以前のことでだいぶ記憶が薄れているのですけど、ある時期に哲学や科学の歴史や科学とはなんぞやという科学論について関心を抱いて学んだことがあります。その際に一番意外であったのは、科学と称される学問のなかでも純粋に科学の要件を満たせる学問は純粋数学と物理学のごく一部の限られた領域でしかないという事でした。

哲学は科学よりも厳密な思考を要求するので、神学論争のような結論の出ない議論を延々と継続しかねない。それでより手っ取り早く、現世的に役に立つ真理を得ながら、かつそれを普遍的・客観的なものと見なしうるような学問にする方法論として科学という枠組みが発せしてきたという流れであったかと思います。しかしこの緩められた科学的要件ですら、窮屈に過ぎて自然科学の中のごく一部の学問だけが満たしうるものだということです。そのためそれ以外の学問は「科学的」であるために、それぞれの領域で可能なかがりにおいて科学の方法論を取り入れた学問を行っています。これは歴史学や経済学や工学や文芸学が科学たり得ないと言えば、直接的にイメージしやすい問題かと思います。

そのため私は科学という学問の全体像について、基本的には(エセ科学ではなく)疑似科学的な学問という認識をもともと持っています。おそらくそうした事から、深層心理学が純粋科学や経験科学の要件を厳密に満たし得るものではないという事実から、そのまま宗教と等価であるかのように発想がつながらないのだと思います。

ただ人間のあらゆる活動に宗教性は絡んでくる問題ではあるので、その程度のいかんでいろいろな見方が成り立ちうるのかもしれません。この点についても、イエスかノーかを問う事にはあまり意味はないかも知れませんね。
 

事実と概念について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 8日(土)16時13分45秒
  たくみさん、こんにちは。

>議論が非難合戦にならないよう、あくまで知的な刺激をしあう場としておきたいのです。

この点について私もまったく同意見です。このところ個人的に深層心理学方面への関心が高まっていまして、その知的な好奇心に吸い寄せられるかたちで、こちらのサイトへお邪魔させて頂きました。もちろん個人同士で結論を出しがたい個々のトピックに関して詳細に議論をして無理に即席の結論を導きだしてもあまり意味の無いことで、私も刺激を受けたいという点が本来の主旨です。

ただ学校教育を通して自分の考えを論理立てて整理するような癖は一応身につけたものの、ついその思考パターンで自分の考えをそのまま文章化すると、(自分の意図とは反して)それが妙に議論じみたかたちになってしまうのです。この点について、下手な書き方になってしまったなと反省しておりました。

それともう一つは、PTSDについては普段別件で懸念していた問題(実在する症状について、個人の思い込みで、それが捏造であるかのように吹聴してしまう人たちが世間に多くいる問題)を連想したので、つい批判めいた書き方に流れてしまいました。

たとえば風邪に類する風邪的な病気の症例がいくつもあるのは否定しないけれど、それらをひっくるめて風邪と括ることや風邪とはこういうものだと語られる言説について、同意するかどうかは別の問題だというお話なのだろうと思います。これは非常によくわかります。ただ表現上の問題で「風邪は怪しい」というものになると、受け取る側にはもっと違った印象になるように思えました。
 

訂正

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月 8日(土)15時11分46秒
  ヨムヨムさんへ
非難と書いてしまいましたが、批判の間違いです。訂正させて下さい。
たくみ
 

事実と概念について

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月 8日(土)10時25分18秒
   ヨムヨムさん、おはようございます。
念のために言っておきますが、ヨムヨムさんを非難するつもりはまったくありません。
議論が非難合戦にならないよう、あくまで知的な刺激をしあう場としておきたいのです。

さて、辛かった戦争体験の後遺症で苦しんでいる事実に対して、共通項を見つけ出し何らかの概念=言葉を与えていくことは大事なことです。
しかし、人間が何かに悩んでいるという事実と、その悩みを説明するための概念は次元が違うものだと思います。

ボクが問題にしているのは、苦しんでいる事実ではなく、概念もしくは観念化の作業です。
概念が有効か否かを問うことは、苦しんでいる人を否定することとは別問題でしょう。

心の苦しみへの癒やしに対して、新興宗教はよく対応していると思います。
根拠はありませんが、人数で言えばおそらく心理学が救っている人より多いかも知れませんね。
たくみ




 

PTSDについて

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 6日(木)20時04分13秒
  たくみさんは「怪しいPTSD」という書籍についてもレビューを書かれていますね。そこでの批判は本来、PTSDにまつわる政治性といった部分的な側面に対する懐疑なのだろうと思います。

ただ問題をそのように限定せずに、PTSDそのものが怪しいと飛躍的に発言してしまうと、これは少し危険なのではないかと思います。

というのはそのように言ってしまうと、PTSDと呼ばれる症状によって実際に苦しんでいる人間はいないと言ってしまうことになり、それはそうした病で苦しんでいる患者や医師たちが嘘をついているという事に他ならないからです。

こうした発言はそれ自体、不当な暴力ともなりかねません。しばしばこれと似たような問題が鬱病に関しても見られます。世間には鬱病なんてものはないだとか、気のせいだとか、本人の自覚の問題だとか、凝り固まった精神論で無茶なことを言う人たちがいます。鬱病そのものは脳の器質的な障害で、心臓病のような身体の病気と同じ問題です。

それとは別の問題として鬱病では無い人が、自分は鬱病ではなかろうかと思い込んだり、あるいは鬱病のふりをして仮病として用いる場合があるといった問題が指摘されています。こうした事例を根拠として、そこから飛躍し、鬱病そのものが無いのだと言ってしまうと、それは大変危険な暴力になりかねません。

そのようなことを少し危惧しました。
 

フロイト批判について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 6日(木)18時55分42秒
  私は以前、主にアメリカでフロイト派の療法を受けた患者たちの一部に医原性と見られる副作用(偽りの記憶)によって苦しむ人たちがいるとの報告を読んだことがあります。ジュディス・ハーマンへの批判を読んでそのことを思い起こしました。タイトルは忘れてしまいましたが、私の読んだ報告においてはフロイトの理論を十分に学んでいない未熟な療法家がフロイトの初期の実験的な手法を断片的に用いたことによって発生した問題だという事でした。フロイトの原書を追ってきちんと学んでいれば、フロイト自身が初期の誤り訂正している事を見落としようが無いのに、いい加減な学び方をしたフロイト派の療法家のせいでフロイト自身が批判を受けているとするものでした。

フロイト批判の妥当性について詳細に論じる事はできませんが、どのような問題についても飛躍を恐れることは重要であるように思います。フロイトの理論のなかでも現在では明確に否定されているものも多く存在します。しかし部分的な問題を見つけて来て、直ちに全体を否定するという思考パターンには非常に危ういものがあると思います。盲目的に信じることと同じくらい、それは危険なものではないでしょうか。

世の中に昔から我々人間について回る、あのあらゆる種類の「差別」の問題は、この飛躍的な思考によって生み出されていると考えられるからです。「ある肌の色の人が何か悪いことを行った。別の同じ肌の色の人が同じような悪いことを行った。あの肌の色の人はみんな悪い奴らに違いない。すべて殺したほうがいい。」これが差別を作り出す飛躍的な思考です。私たちはこの事に十分注意深くならなくてはならないと思います。もちろん同様に盲目的な信仰についても考える必要があります。
 

勉強の宗教性

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 6日(木)17時34分16秒
  宗教性といえば受験勉強のようなタイプの「勉強」はまさに宗教行為を思わせるものがあります。というのも、長い学問的な議論の過程を圧縮して、その個々の結論だけをともかく丸暗記して得点を稼ぐゲームという性質を持っているからです。

教わるだけでなく教わった内容が本当に正しいのかを積極的に問い学ぶ過程の継続がすなわち学問するという事ですが、てっとりばやく試験をパスするために行われている受験勉強のような「勉強」の過程では教わった内容(例えば公式や歴史観など)をとりあえず正しいものとして無批判に丸暗記していきます。(もちろんすべての学生がそうしているということではありませんが)

学問の過程に信仰性が入り込んでくる問題はたしかに存在します。しかしそれは学問のジャンルによるものではなく、学問するものの態度によって左右される事柄でしょう。たとえばキリスト教神学ですら、非キリスト教徒が神への信仰を抜きにして純粋に学問的に研究することは可能です。

学問的な態度というのは例えばデカルトもカントもニーチェも読んでそれぞれの哲学者の考えを学ぶけれど、けしてデカルトの言った事はすべて正しいに違いないだとか、そういう盲目的・無批判的な立場にはまり込まないということです。反対に例えばニーチェが何かおかしな発言をしたところだけを取りあげて、ニーチェなんてただの狂人に過ぎないのだからその哲学もすべてに違いないだとか、そういう飛躍した何か決めつけたような態度を取ることも学問的なものでは無いと思います。
 

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