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心理学観について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月18日(火)19時08分7秒
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  たくみさん、こんにちは。

心理学にまつわる抵抗感や不信感のようなものはもっともだと思います。たしかに持ちようひとつで現実の問題が解消されるわけではありません。それに精神的な病には現実の問題によって引き起こされていると見なせる側面がたぶんにあるはずです。

そしてたくみさんが心理学に対して抱いている印象については、「そういう面もあるけれどそういうものではない」というような返答になってしまいます。というのは、(深層心理学に限ると)フロイトもアドラーもユングも、心の病を本人の気の持ちよう一つでなんとでもできるような簡単なものだとは主張していないからです。そういう面もあるというのは、クライアントの抱えている金銭問題だとか恋愛問題だとか、人生上の現実問題については(基本的には)心理療法家が立ち入るべき問題ではなく、最初からそこへの直接の介入は断念されているからです。その上で心理学にできる事柄が追求されています。

例えば今日、エリク・エリクソンの提出したアイデンティティの確立とライフサイクルという概念は一般に広く参考にされている心理学的知見の一つかと思います。アイデンティティの確立とは青年期の代表的な発達課題の一つでウンヌンという理論です。青年期以降のすべてをアイデンティティの確立の問題と見なすことはできないにせよ、こうした理論が現実の心理的な生活課題を考える上で非常に重要な示唆を与えることも否定できないように思います。アイデンティティが全てではないけれど、たしかにアイデンティティの課題は無視しない方が良いという意味で重要性を感じます。そしてこのエリク・エリクソンのアイデンティティの理論もまたフロイトの理論を発展させたものになっています。

それから通常、幻聴が聞こえるというような症状が見られると、心理学はそれを取り除こうとするものだという認識があると思います。私もそういう先入観を持っていました。ところが実際にはそうでもないようです。先日あげたユーチューブに載っている河合隼雄さんの講演でも出て来ますが、そういう症状を取り除こうとする過程は、本人の自我に多大な負担を強いるのである場合には致死的な危険を伴うそうです。それでむしろ症状を取り除かないほうが良いと見られる場合には、療法家はクライアントにそのことを説明し、本人に症状と付き合って生きて行くか、それともあくまでもそれを取り除く分析を受けるのかを決めてもらうようです。

それから、神経症の原因の期限を過去に求めるのはフロイト派の主とした特長だと思います。アドラー派は目的論的な考え方をするので、未来に向かっての目標がどう妨げられていて症状として出ているのか、という捉え方をします。ユング派は症状を発症する素因の一つとして過去からの影響は否定できないと認めるものの、目の前の症状は基本的に直近の現在の課題として認識します。この事が療法におけるフロイト派の手法とユング派の手法の違いにもつながっています。

例えば患者の語った話題Aが注目すべき内容を持っていると、フロイト派は話題Aで思い出す何かを尋ね、話題Bがでると、話題Bで思い出す何かを尋ねます。そうすると、A→B→Cと時系列を持つ連鎖が追いかけられることによって患者の抱える様々なコンプレックスが表面化してきます。これは患者の意識を過去へ過去へと掘り下げていく誘因にもなります。

ユング派では話題Aに注目すべき点を認めれば、話題Aで思い出す(連想する)何かを尋ね、話題A1が出て来ると、続けて話題Aで思い出す別の何かを尋ねます。すると、A1、A2、A3という素材が出て来ます。この方法は現在クライアントの抱えている症状、問題に直接関係するコンプレックスを見つけ出すための手法です。

>恋愛は近代の産物だとはよく言われます。

恋愛感情のようなものは近代以前にもあったはずだというのはその通りだと思います。例えば紫式部の源氏物語にしても、あれは主に恋愛をテーマとした物語です。

ただ私が述べたのはそういう意味では無く、自由恋愛という価値観・概念そのものが存在しないという状況のことです。別の例でいえば、職業選択の自由の無い時代、親が百姓なら子供も百姓になる時代には自分にあった職業を見つけ出さなくてはならないという観念そのものが存在しないということです。それは例えば江戸時代の百姓の子供に、「オレは武士にはなれないのか」という悩みが無かったという意味ではありません。そうではなく(親と同じ)百姓になるのが当然である時代には、「百姓になっていいのだろうか」とか「百姓のままでいいのだろうか」などという意味での職業選択上の悩みがないということです。

同じような事が福沢諭吉の「福翁自伝」にも出て来ます。江戸幕府がいよいよ洋学も学ばなければならないと考え、福沢に経済学の文献を邦訳させます。その際に「自由競争」なる概念が日本語に存在しなかったために、ここでの自由という概念の説明には非常な混乱を来したと言います。それまでの日本人の意識のなかでは「自由に相争う」といえば、戦国時代のような殺し合いの状況しか思い浮かばなかったということです。
 
 
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