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たくみさんのおっしゃるように、フロイトやユングやアドラーの理論を読んでいくと、有るポイントまで来ると、この部分は信じるか信じないかという問題になってくるなと感じるところがあります。その意味で宗教性を感じさせるところがありますし、分析家の中にはフロイトやユングに対して信仰を抱いているかのような印象を与える方もいますね。
ただこの問題は学問一般に見られる現象で科学もまたこの例外ではありません。偉大なニュートン先生の理論に間違いがあるはずがないとして、多くの科学者が観測事実とニュートン物理学との矛盾を取り繕うためにエーテルという存在しない物質をでっちあげてニュートン物理学の万能性を信じようとし続けました。また相対論と量子論とでは根本的な世界観に矛盾があるにも関わらず、ある科学者は相対論を信奉し、別の科学者は量子論を信奉して科学的に世界を観測しています。このように科学の領域においても、信仰の問題と完全には切り離されていないと思います。
たしかに近代以降、心理学や精神医学が発達したのは近代化によってキリスト教のような大きな物語が力を失ったことつながっていると思います。おそらく近代文学の勃興ともこの問題は関連していそうですね。
ただ心理学に信仰性が含まれるといってもその全体が宗教そのものだというのは無理があるのではないでしょうか。
現代の私たちが自分たちの心に関する事柄を表現するのに日常言語の範囲ではまったく事足りません。フロイトやユングやその他の心理学者たちの作り出した概念を用いる事でしか、私たちは現代人の心について適切に把握したり考えることができません。
もうずっと昔のことになりますが、ある友人から「私は自分が何をやりたかったのかわからなくなった」と言われた事があります。私は自分の経験からもそういう状態・混乱というものをイメージすることができましたが、それについて何も語ることができませんでした。そもそも、それについて語る言葉を私は何一つ持たなかったからです。
しかし心理学の言葉、例えば、意識と無意識、ペルソナと影、抑圧、否認、投影、元型の期待などを用いることで、その「私が私という人間について混乱する」現象について、それがもっともである理由を語ることができますし、その問題について現実的な対応を取ることも可能になります。
そうした諸概念がどのような仕組みで発生するのかといった理論を読んでいると、日常の経験からも十分に納得のできるもので、けして宗教じみたものではありません。心理学は新宗教だと言ってしまうのは少し飛躍が過ぎるように思います。
私は科学的な方法論にたいして信頼を寄せています。しかし一方で科学万能主義のような科学信仰にたいしてはむしろ危機感を抱きます。科学にはそれが唯一絶対の普遍的な真理をあらわしているかのように人に信じさせる魔力があるからです。しかし少し冷静になって考えて見れば、我々人間にとって重要な真理の多くは科学的な真理でもなければ普遍的な真理でもありません。
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