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「東京の下層社会」の三大スラム

 投稿者:aa  投稿日:2012年 3月17日(土)08時01分21秒
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  この板に書き込んで良いものかわからないが、短時間で他にページがみつからないので、、、
1.紀田先生は言う。下谷万年町は繁華街である浅草寺や上野駅に隣接していたので、車夫などの生活に便利だった。四谷鮫ヶ橋は陸軍士官学校の残飯があった。芝新網町は海軍兵学校の残飯があった。、、、なぜその場所なのかの説明に便利を挙げているが賛成できない。そのような側面があったことを後から理由にしたのではないだろうか。下谷万年町はその方角にあったというだけであり、当時の東京市街の最もはずれに位置しておりその向うは村部だった。陸軍士官学校はもちろん今の防衛省であり、四谷鮫ヶ橋はかなり離れていてむしろ造兵廠や練兵場のほうが近い。海軍兵学校があったのは築地であり、芝新網町はやはりかなり離れている。
2.四谷鮫ヶ橋の近辺は学習院があることもあって超高級マンション街になっているし、それぞれの土地に住んで居られるかたには失礼ではあるが、敢えて言う。現在私がその位置に立ってみて、三つの街に共通するのは、なぜこんな場所があるのだろうかという感覚であり、勝手の悪さを非常に感じる。そこで別の説を立てたい。明治の時代と現在と変わらないもの、そして私にその様に感じさせるものは、鉄道の線路である。下谷万年町は上野に始まる日本鉄道。四谷鮫ヶ橋は飯田町に始まる甲武鉄道。芝新網町は新橋に始まる官営鉄道。芝新網町の場合鉄道は海岸を走っており、「土地が分断された」とは言えないが海が遮断されたのであり、結果は同じことだ。日本鉄道は上野の山と飛鳥山を利用して山と平野の境目を走っている。甲武鉄道は外堀で天然の立体交差を実現しており、四谷鮫ヶ橋のあたりはやはり山と低地の境目になっている。元々がそういう地形のところへ、鉄道が通ったために土地が分断され、一種の袋小路のようなエアポケットになる場所が生まれて一般の人々に敬遠された。そして逆に、貧民が密集して住むようになったのではないだろうか。
 
 
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