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医学とは何か

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 9日(日)22時27分45秒
  そこで医学という学問について考えて見ると、これもまた一種の技術的な学問であると言えます。工学と同じで科学的な知見を応用した技術についての学問であるということです。

医学は人体の病を治癒する事を目的としますが、人体には一つとして同じものはありません。実際には同じ働きかけに同じ反応を返す個体は存在しません。しかしデータを集めて平均値を取ると、「この年齢のこの性別のこの民族の健康な個体はおおよそ、このような刺激を与えれば、こうした反応を起こす」ことはわかります。

そうした明確に可視化・数値化できる部分は明らかにし、見えないところや直接分からないところは、仮説を立てながら試行錯誤して技術的な解決策を模索します。これは臨床だけでえはなく、医学の基礎研究においても同じことです。

心理学も医学や工学のような技術的な学問(および技術のための理論的解釈の学問)ですが、ひとつ大きな違いは深層心理学は反証可能性の無いところまで仮説を進めることがある点かと思います。そもそも、心の存在証明を待たずに心理の研究をするわけですから、反証可能性を完全に満たせというほうが無理ではありますが。

しかしこれを医学の一分野であると捉えれば、その理論の全てが反証可能性がどうであるかという問題よりも、漢方のように実際に人の病を治したり健康を増進するのに役立てるかどうかのほうが重要であると思います。もちろん怪しい民間療法であってはなりませんから、実証主義的な学問である必要はありますが、フロイトやユングの研究にはそうした科学的な姿勢があると思います。
 
 

チューリング・テスト

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 9日(日)16時51分35秒
  おそらくたくみさんもご存じなのではないかと思いますが、科学と心の関係について考える際に私がしばしば思い起こすのは人口知能の分野のチューリング・テストです。

これはどのような条件を満たせば人工知能が成立したと見なせるのかを問題としたテストで、ある被験者とのコミュニケーションにコンピュータを用います。その被験者はコンピュータ画面越しに誰かと通信をすることになるのですが、その相手が人間であったり、コンピュータであったりする訳です。この場合、良くできたコンピュータ・プログラムほど自分が人間であるかのように被験者を欺くことができます。

このテストからは様々な問題を考えることができますね。極端な話、自分が誰かと会話していて、そこに相手の心の存在を感じ取るとします。しかし(理論的には)それはよく出来たプログラムが機械的な返答をかえしているだけでそこに心はまったく関与していないかもしれません。

そうすると人間の心そのものが機械的な(少々複雑な)プログラムに過ぎないのだと考えるような科学者も出て来ます。しかし本当にそうだと科学的に主張するためには、論証するか、実証しなくてはなりません。そうなると、哲学的な・形而上学的な領域に議論がはまり込んで行くために科学的な研究は延々と進まないかたちになってきます。

このため工学的・技術的発想をする立場からは心を学問的に取り扱うのは難しくないのですが、科学的な学問として心を取り扱うのは非常に問題を抱え込むことになるのです。
 

科学と学問

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 9日(日)15時19分9秒
  >さて科学とは、ある一定の条件下で再現できる、もしくは追認できる論理の体系を追求するものだ、とボクは考えています。上記のように考えると、科学は数学と理論物理くらい、大甘に見ても自然科学系しかないということになりますね。

そうですね。ですから複雑系科学など現代の科学は従来の科学の定義を満たせなくなっています。物理学ですら普遍的な真理であるとは言えなくなっていますね。

>もう一度心理学に戻ると、心の動きは脳の中の何らかの物質の働きでしょうから、心の動きを解明する科学は成立すると思います。

この点が科学的には非常に難しいのは、科学は方法的懐疑にしたがって間違いが入り込み得る可能性を厳密に排除しながら、真理を積み上げていなくてはなりません。これは技術的な妥当性や合目的性を達成すれば構わない工学的な学問とは違うところです。

心は人間の解釈の産物です。天体に喩えれば星座のような概念です。私たちは人間の表情の動きや行動を見て、そこに人間の心を感じ取ります。しかし私がAさんをなんて意地悪な人間だ(Aさんの心は意地悪)と解釈したとしても、Bさんはその正反対の解釈をしているかもしれません。結局のところ、純粋に科学的に見えれば、たしかに我々が見たと主張できるのは、人間の外面に現れた表情なり、行動であって、人間の心そのものを私たちはバイアスを抜きにして観測することはできません。

そのため「心」は科学的に存在することを立証できないと考えられています。いわゆる行動派の心理学者たちが自分たちの研究を純粋に科学的な学問だと主張するために、私たちは行動を研究しているのであって(存在しない)心を研究しているのではないと主張するのはこのためです。(哲学では心どころか、目の前に見えている人がたしかにそこに居ると言えるのかどうかすら、疑って確かめなくてはなりませんから、その意味では科学はまだ疑い方が緩いですね)
 

科学と学問

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月 9日(日)07時04分38秒
   知的な刺激の場にすることに賛同くださり、感謝です。

 さて科学とは、ある一定の条件下で再現できる、もしくは追認できる論理の体系を追求するものだ、とボクは考えています。
これは一定の条件下では100%の再現性をもっている必要があります。
それに対して、学問とはもっとずっと広いもので、考えること自体と言ったら良いか、現実を自分なりに解釈して一種の法則性のようなものを導き出すことでしょうか。
この法則性は100%確実でなくてもよく、それなりの有効性があればOKというのが学問でしょう。

 上記のように考えると、科学は数学と理論物理くらい、大甘に見ても自然科学系しかないということになりますね。
ボクは建築の設計を生業にしていますが、建築でも構造力学は科学(工学か)でしょう。
しかし、建築の設計=デザインはとても科学とは呼べません。それでも構造屋さんより建築デザインをする意匠屋のようが、はるかに大きな顔をしています。
通常、建築家といえば構造屋ではなく意匠屋のことを言いますから、ご想像がつくと思います。

 もう一度心理学に戻ると、心の動きは脳の中の何らかの物質の働きでしょうから、心の動きを解明する科学は成立すると思います。
しかし、フロイトやユングのやったような手順では、学問とは言えても科学とはとても呼べません。
科学というのは人間への適否を超えて、もっと無色というか人間との利害関係とは無縁のところにあるように思います。

 そこで心理学は学問である、としておけば良いのではないでしょうか。
ボクは宗教も学問に含めますので、心理学に頼るか、宗教に頼るかは、あとは各人の価値判断の問題になります。
宇宙に神が存在すると考えると、心の苦悩が解きほぐされる人たちがいます。
オウムのように危険なものまで含めて、新興宗教は人間存在を深く問うています。
ではまた。
たくみ





 

純粋科学と理論限界

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 8日(土)19時11分18秒
  それから以前は科学は普遍的な真理だと考えられてきましたし、普遍的な真理であろうと試みられて来ましたが、現代ではこのあたりの認識は大きく変わってきたのではないかと思います。

普遍的であるという概念は、時間的にも空間的にも制約を受けない一般性が認められることを意味しますね。

かつてニュートン物理学が万能であると信じられていた頃には、文字通りニュートン物理学こそ森羅万象を説明する唯一の普遍的な真理であると多くの科学者たちは考えていました。しかしこんにちは、ニュートン物理学にも相対論にも量子論にも、それぞれ、それが妥当する理論限界が存在すると見なされていますし、それぞれの理論の世界観に矛盾がある、つまりそれらの個々の物理学はあくまでも物理世界に対するそれぞれ異なったモノの見方であるに過ぎないということが認識されています。

そのようなモノの見方の違いは、深層心理学の各派の間にも見られるものです。しかし人間の心の仕組み・構造に関する理解の仕方が各派によって異なるとはいえ、それがそのまま各派の心に対する理解の仕方が出鱈目であることを意味しないと思います。その事は各派の理論と心理療法の実例を読んでいると強く感じます。
 

科学観について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 8日(土)17時31分52秒
  この点についても認識の差異を埋める必要はないのですが、たくみさんのとの間で漠然とモノの見方が違っている大きなポイントは科学という学問に対するイメージのように思います。

私ももうずっと以前のことでだいぶ記憶が薄れているのですけど、ある時期に哲学や科学の歴史や科学とはなんぞやという科学論について関心を抱いて学んだことがあります。その際に一番意外であったのは、科学と称される学問のなかでも純粋に科学の要件を満たせる学問は純粋数学と物理学のごく一部の限られた領域でしかないという事でした。

哲学は科学よりも厳密な思考を要求するので、神学論争のような結論の出ない議論を延々と継続しかねない。それでより手っ取り早く、現世的に役に立つ真理を得ながら、かつそれを普遍的・客観的なものと見なしうるような学問にする方法論として科学という枠組みが発せしてきたという流れであったかと思います。しかしこの緩められた科学的要件ですら、窮屈に過ぎて自然科学の中のごく一部の学問だけが満たしうるものだということです。そのためそれ以外の学問は「科学的」であるために、それぞれの領域で可能なかがりにおいて科学の方法論を取り入れた学問を行っています。これは歴史学や経済学や工学や文芸学が科学たり得ないと言えば、直接的にイメージしやすい問題かと思います。

そのため私は科学という学問の全体像について、基本的には(エセ科学ではなく)疑似科学的な学問という認識をもともと持っています。おそらくそうした事から、深層心理学が純粋科学や経験科学の要件を厳密に満たし得るものではないという事実から、そのまま宗教と等価であるかのように発想がつながらないのだと思います。

ただ人間のあらゆる活動に宗教性は絡んでくる問題ではあるので、その程度のいかんでいろいろな見方が成り立ちうるのかもしれません。この点についても、イエスかノーかを問う事にはあまり意味はないかも知れませんね。
 

事実と概念について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 8日(土)16時13分45秒
  たくみさん、こんにちは。

>議論が非難合戦にならないよう、あくまで知的な刺激をしあう場としておきたいのです。

この点について私もまったく同意見です。このところ個人的に深層心理学方面への関心が高まっていまして、その知的な好奇心に吸い寄せられるかたちで、こちらのサイトへお邪魔させて頂きました。もちろん個人同士で結論を出しがたい個々のトピックに関して詳細に議論をして無理に即席の結論を導きだしてもあまり意味の無いことで、私も刺激を受けたいという点が本来の主旨です。

ただ学校教育を通して自分の考えを論理立てて整理するような癖は一応身につけたものの、ついその思考パターンで自分の考えをそのまま文章化すると、(自分の意図とは反して)それが妙に議論じみたかたちになってしまうのです。この点について、下手な書き方になってしまったなと反省しておりました。

それともう一つは、PTSDについては普段別件で懸念していた問題(実在する症状について、個人の思い込みで、それが捏造であるかのように吹聴してしまう人たちが世間に多くいる問題)を連想したので、つい批判めいた書き方に流れてしまいました。

たとえば風邪に類する風邪的な病気の症例がいくつもあるのは否定しないけれど、それらをひっくるめて風邪と括ることや風邪とはこういうものだと語られる言説について、同意するかどうかは別の問題だというお話なのだろうと思います。これは非常によくわかります。ただ表現上の問題で「風邪は怪しい」というものになると、受け取る側にはもっと違った印象になるように思えました。
 

訂正

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月 8日(土)15時11分46秒
  ヨムヨムさんへ
非難と書いてしまいましたが、批判の間違いです。訂正させて下さい。
たくみ
 

事実と概念について

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月 8日(土)10時25分18秒
   ヨムヨムさん、おはようございます。
念のために言っておきますが、ヨムヨムさんを非難するつもりはまったくありません。
議論が非難合戦にならないよう、あくまで知的な刺激をしあう場としておきたいのです。

さて、辛かった戦争体験の後遺症で苦しんでいる事実に対して、共通項を見つけ出し何らかの概念=言葉を与えていくことは大事なことです。
しかし、人間が何かに悩んでいるという事実と、その悩みを説明するための概念は次元が違うものだと思います。

ボクが問題にしているのは、苦しんでいる事実ではなく、概念もしくは観念化の作業です。
概念が有効か否かを問うことは、苦しんでいる人を否定することとは別問題でしょう。

心の苦しみへの癒やしに対して、新興宗教はよく対応していると思います。
根拠はありませんが、人数で言えばおそらく心理学が救っている人より多いかも知れませんね。
たくみ




 

PTSDについて

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 6日(木)20時04分13秒
  たくみさんは「怪しいPTSD」という書籍についてもレビューを書かれていますね。そこでの批判は本来、PTSDにまつわる政治性といった部分的な側面に対する懐疑なのだろうと思います。

ただ問題をそのように限定せずに、PTSDそのものが怪しいと飛躍的に発言してしまうと、これは少し危険なのではないかと思います。

というのはそのように言ってしまうと、PTSDと呼ばれる症状によって実際に苦しんでいる人間はいないと言ってしまうことになり、それはそうした病で苦しんでいる患者や医師たちが嘘をついているという事に他ならないからです。

こうした発言はそれ自体、不当な暴力ともなりかねません。しばしばこれと似たような問題が鬱病に関しても見られます。世間には鬱病なんてものはないだとか、気のせいだとか、本人の自覚の問題だとか、凝り固まった精神論で無茶なことを言う人たちがいます。鬱病そのものは脳の器質的な障害で、心臓病のような身体の病気と同じ問題です。

それとは別の問題として鬱病では無い人が、自分は鬱病ではなかろうかと思い込んだり、あるいは鬱病のふりをして仮病として用いる場合があるといった問題が指摘されています。こうした事例を根拠として、そこから飛躍し、鬱病そのものが無いのだと言ってしまうと、それは大変危険な暴力になりかねません。

そのようなことを少し危惧しました。
 

フロイト批判について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 6日(木)18時55分42秒
  私は以前、主にアメリカでフロイト派の療法を受けた患者たちの一部に医原性と見られる副作用(偽りの記憶)によって苦しむ人たちがいるとの報告を読んだことがあります。ジュディス・ハーマンへの批判を読んでそのことを思い起こしました。タイトルは忘れてしまいましたが、私の読んだ報告においてはフロイトの理論を十分に学んでいない未熟な療法家がフロイトの初期の実験的な手法を断片的に用いたことによって発生した問題だという事でした。フロイトの原書を追ってきちんと学んでいれば、フロイト自身が初期の誤り訂正している事を見落としようが無いのに、いい加減な学び方をしたフロイト派の療法家のせいでフロイト自身が批判を受けているとするものでした。

フロイト批判の妥当性について詳細に論じる事はできませんが、どのような問題についても飛躍を恐れることは重要であるように思います。フロイトの理論のなかでも現在では明確に否定されているものも多く存在します。しかし部分的な問題を見つけて来て、直ちに全体を否定するという思考パターンには非常に危ういものがあると思います。盲目的に信じることと同じくらい、それは危険なものではないでしょうか。

世の中に昔から我々人間について回る、あのあらゆる種類の「差別」の問題は、この飛躍的な思考によって生み出されていると考えられるからです。「ある肌の色の人が何か悪いことを行った。別の同じ肌の色の人が同じような悪いことを行った。あの肌の色の人はみんな悪い奴らに違いない。すべて殺したほうがいい。」これが差別を作り出す飛躍的な思考です。私たちはこの事に十分注意深くならなくてはならないと思います。もちろん同様に盲目的な信仰についても考える必要があります。
 

勉強の宗教性

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 6日(木)17時34分16秒
  宗教性といえば受験勉強のようなタイプの「勉強」はまさに宗教行為を思わせるものがあります。というのも、長い学問的な議論の過程を圧縮して、その個々の結論だけをともかく丸暗記して得点を稼ぐゲームという性質を持っているからです。

教わるだけでなく教わった内容が本当に正しいのかを積極的に問い学ぶ過程の継続がすなわち学問するという事ですが、てっとりばやく試験をパスするために行われている受験勉強のような「勉強」の過程では教わった内容(例えば公式や歴史観など)をとりあえず正しいものとして無批判に丸暗記していきます。(もちろんすべての学生がそうしているということではありませんが)

学問の過程に信仰性が入り込んでくる問題はたしかに存在します。しかしそれは学問のジャンルによるものではなく、学問するものの態度によって左右される事柄でしょう。たとえばキリスト教神学ですら、非キリスト教徒が神への信仰を抜きにして純粋に学問的に研究することは可能です。

学問的な態度というのは例えばデカルトもカントもニーチェも読んでそれぞれの哲学者の考えを学ぶけれど、けしてデカルトの言った事はすべて正しいに違いないだとか、そういう盲目的・無批判的な立場にはまり込まないということです。反対に例えばニーチェが何かおかしな発言をしたところだけを取りあげて、ニーチェなんてただの狂人に過ぎないのだからその哲学もすべてに違いないだとか、そういう飛躍した何か決めつけたような態度を取ることも学問的なものでは無いと思います。
 

学問の宗教性

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 6日(木)16時24分37秒
  たくみさんのおっしゃるように、フロイトやユングやアドラーの理論を読んでいくと、有るポイントまで来ると、この部分は信じるか信じないかという問題になってくるなと感じるところがあります。その意味で宗教性を感じさせるところがありますし、分析家の中にはフロイトやユングに対して信仰を抱いているかのような印象を与える方もいますね。

ただこの問題は学問一般に見られる現象で科学もまたこの例外ではありません。偉大なニュートン先生の理論に間違いがあるはずがないとして、多くの科学者が観測事実とニュートン物理学との矛盾を取り繕うためにエーテルという存在しない物質をでっちあげてニュートン物理学の万能性を信じようとし続けました。また相対論と量子論とでは根本的な世界観に矛盾があるにも関わらず、ある科学者は相対論を信奉し、別の科学者は量子論を信奉して科学的に世界を観測しています。このように科学の領域においても、信仰の問題と完全には切り離されていないと思います。

たしかに近代以降、心理学や精神医学が発達したのは近代化によってキリスト教のような大きな物語が力を失ったことつながっていると思います。おそらく近代文学の勃興ともこの問題は関連していそうですね。

ただ心理学に信仰性が含まれるといってもその全体が宗教そのものだというのは無理があるのではないでしょうか。

現代の私たちが自分たちの心に関する事柄を表現するのに日常言語の範囲ではまったく事足りません。フロイトやユングやその他の心理学者たちの作り出した概念を用いる事でしか、私たちは現代人の心について適切に把握したり考えることができません。

もうずっと昔のことになりますが、ある友人から「私は自分が何をやりたかったのかわからなくなった」と言われた事があります。私は自分の経験からもそういう状態・混乱というものをイメージすることができましたが、それについて何も語ることができませんでした。そもそも、それについて語る言葉を私は何一つ持たなかったからです。

しかし心理学の言葉、例えば、意識と無意識、ペルソナと影、抑圧、否認、投影、元型の期待などを用いることで、その「私が私という人間について混乱する」現象について、それがもっともである理由を語ることができますし、その問題について現実的な対応を取ることも可能になります。

そうした諸概念がどのような仕組みで発生するのかといった理論を読んでいると、日常の経験からも十分に納得のできるもので、けして宗教じみたものではありません。心理学は新宗教だと言ってしまうのは少し飛躍が過ぎるように思います。

私は科学的な方法論にたいして信頼を寄せています。しかし一方で科学万能主義のような科学信仰にたいしてはむしろ危機感を抱きます。科学にはそれが唯一絶対の普遍的な真理をあらわしているかのように人に信じさせる魔力があるからです。しかし少し冷静になって考えて見れば、我々人間にとって重要な真理の多くは科学的な真理でもなければ普遍的な真理でもありません。
 

近代の宗教か

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月 6日(木)11時43分56秒
   フロイトの登場は、西洋近代がもたらしたものじゃないでしょうか。
(マルクスも近代の産物でしょうね)
宗教が崩壊し始めたあとに、心の隙間を埋めるものが必要だった。
宗教の跡地に、心理学が滑り込んだように感じています。
そのため、心理学は神を殺した西洋近代人にはあてはまりやすいが、それ以外の人にははみ出す部分が多すぎるように思います。

宗教が政治力学でどうにでも動いてきたように、心理学も時の政治力学に大きく影響を受けています。
たとえば、ジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」にしても
http://www.rin-5.net/001-250/212-shinteki_shougai.htm
フェミニズムに後押しされたわけで、今ではかつての熱は冷めています。

もちろん、心理学が学問であることを否定するものではありません。
神学、天文学、医学、法学などが初期の学問だったのですから、心理学をその中に入れることは問題ありません。
しかし、経験科学かと言われると、ちょっと首をかしげたくなります。
心理学は<新宗教>だから信じる人が信じれば良いのではないでしょうか。
宗教とくに新興宗教は多くの悩める人を救っています。
たくみ


 

親や教師による教育

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 5日(水)19時15分37秒
  科学的ではなくとも学問として研究が可能であるのは実証や反証が不可能な内容というのが部分的にそうであるというだけで全体がそうである訳では無いからです。

例えば同じ深層心理学でもユング派的な観点に立てば、フロイト派やアドラー派の理論には明らかに間違っていると根拠をあげて批判できる要素が部分的には存在します。同じことがフロイト派から見たユング派やアドラー派についても言えます。

そのように科学的な意味では完璧を期すことできない学問であるにも関わらず、(少なくとも部分的には)有用であり得ると考えられるのは、ちょうど学校の教師や家庭での親の教育が子供にとって役に立たないと切り捨てられない事情に似ているかもしれません。

教師や親の教えというものも、必ずしもすべてが科学的な真理ではありません。一般的にはむしろ科学的には誤っている事さえ部分的に含んでいると思います。しかし教師や親による教育は子供の健全な成長にとって役に立たないどころか必要なものです。もしも純粋に科学的だといえる内容しか教えないのであれば、教師や親は人間にとって重要な事柄の多くを子供に教える事ができないでしょう。自分の子供が隣のあの子とどう付き合うべきかという事柄さえ、科学的には答えられない問題なのですから。
 

科学的研究

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 5日(水)15時55分37秒
  >とすると、心理学は心をどのように研究できるのでしょうか。研究できないから、心はないということになるのでしょうかね。

科学的には「心が存在するかどうかは科学的にはわからない」ということしかできません。具体的な人間を観察して心が有るのだろうと仮定したり想像することは可能ですが、科学的に間違いなく有るのだと証明することは不可能だからです。

そのように科学的に証明することが不可能な命題は科学的には答えを出せないので扱わないというのが純粋科学のルールです。行動派は自分たちの研究を科学にしようとこだわるあまりについ「心は存在しない」という非科学的な立場にはまり込んでしまいます。

しかし学問や研究というものは科学の専売特許ではありません。元々、科学の母胎である哲学や神学といった形而上学といった学問は狭い科学的なルールに縛られないものでした。それらの広範な知の領域を便宜的に狭めて、より普遍的な知識を研究しやすくしようとしたお約束のセットが科学というかたちになっています。

科学的な真理は便宜的な一つの真理の型に過ぎないのであって、科学的な真理の他に真理(本当の事)が存在しない訳ではありません。また科学的な真理だとされている内容もより厳密に考えれば誤魔化しを含んでいることがあります。

例えば天動説と地動説のどちらが正しいか。現在の科学的な説明では、昔は間違って太陽が地球の周りを回っていると考えられていたが、本当は地球が太陽の周りを回っていることが証明されたとしています。

これも本当は嘘ですよね。アインシュタインは天動説よりも地動説のほうが正しいと言えるのは、地動説に基づいたほうが天文学に関する様々な計算がよりシンプルにできるからで、全能の神様が作られた宇宙の法則が無駄に複雑であるはずが無いからだとしています。

要するに科学というのは純粋に客観的な立場を保っているポーズを取りながら、実際には宗教的な思い込みの影響から離れていないところがあると言えます。

心の実在が科学的に証明できないからといって、心理学が学問であることができない訳ではありません。

というのは科学的研究でさえ、理論的に仮説を立てるという研究とそれを実証する研究とは独立した別のものとして行われています。

学問として追求する際には、心の存在証明を待たずに、心の存在を仮定して論考を進めることは可能です。ただし深層心理学が科学的であることが不可能なのは、そのように論考した理論に実証や反証が不可能な内容を含んでしまう事になるからです。

例えばフロイト派やユング派においては夢を解釈することも重要な研究です。しかし個々の被分析者の語った夢の中の「この部分はこういう内容を象徴しているのだろう」という推論を様々な文献やその他の被分析者の事例を参考にしながら推し進めることは可能で、ある程度確からしい解釈に迫ることは可能であっても、その解釈が科学的に間違いなく正しいものであることを立証することは不可能です。

しかし少なくともユングやユング派の捉え方では、それらの解釈の一つひとつ科学的に正しいものであるかどうかは重要ではないのです。大事なことはその被分析者がどうのように心を整理して生きて行く方向性のヒントを見いだすかであって、個々の被分析者が夢の分析研究で見られる類型にどれくらいピッタリと当てはまるかは、あまり意味の無い問題であるということです。人類一般の夢分析から得られたヒントが個々の被分析者のケースで、役に立てば参考に用いれば良いし、類型から逸れるのであれば、逸れるなりにその人の個性が明らかになります。

この点でも河合隼雄さんは大胆な面白い発言をしています。先にあげた講演で、隼雄さんはユング派の理論は他人に適用できるものではないといっています。それは(ユング派のヒントを参考にして)自分という人間をどう理解するのかというものであって、自分以外の他人に当てはめて、ユング派の理論によればこの人はこういう人であるに違いないとは言えないということです。
 

心理学の非科学性

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 5日(水)15時03分18秒
  河合隼雄さんの講演『現代人と心の問題』の動画を観て、僕がまっさきに驚いた点は自身、日本のユング派分析家の第一人者であるような方が自分のやっている学問はいわゆる科学的なものではないとあっさりと認めている事です。ユングやユング派にとっては自分たちの心理学が純粋科学ではない事はネガティブな要素ではなく、人間の心理を扱う学問として正しい立場であるという考えのようです。

ユングは人間は脳に何の書き込みもされていない白紙の状態で生まれてくるのではないと考え、元型論を提出しました。これは人間は無意識下に発展段階に対する様々な命令を発する潜在的な素質をもって生まれてくるという考えで、それらの素質のことを元型と名付けています。

この元型論は当時から主流派であった行動派の考え(人間は白紙で生まれてくる)とは矛盾するもので、ユング派異端的だと見なされたそうです。

しかしユング派のアンソニー・スティーヴンスは、その後、様々な科学的学問の人間観はユングの元型論と同じ考えを取るようになってきていると指摘しています。例えば動物行動学においては人間に限らず全ての動物が生得的開発機構と呼ばれる命令セットを中枢神経組織にもった状態で生まれてくると説明するそうです。

ユングは自身、他人に自分の考えを説明するのが下手だと認めているそうで、自分の理論を分かりやすく伝えることやその正しさを立証する方面にはあまり豊かな才能をもっていなかったかのようですが、彼の直観の内容をわかりやすく噛み砕いた説明を読むと、一見支離滅裂な話のように思えていたものが意外と筋の通った話だと思えて非常に示唆的なものを感じます。

もちろん、たくみさんの感じられるような「うさんくささ」みたいなものはたしかに心理学関係について回っている要素ではあると思います。

PTSDにも疑問を感じられるのはよく分かりますね。ただ私の場合はPTSDという症状を具体的にどういうものであるかをイメージすることができます。というのは私自身が経験したのはPTSDの要件には当てはまらないかもしれませんが、ある時期、精神的なショックを受けるような出来事がたて続いて、その後、強い心的外傷後ストレス的なものに長期的につきまとわれるという体験をしたからです。PTSDは悲惨な戦闘体験などによって発生することが多いようですから、おそらくはアレのもっと重度の深刻な状況を指しているのだろうと思います。

何かショックな記憶があると「私はPTSDなのではないかしら?」と一般の我々がすぐに思うのは、多くの場合、PTSDには当てはまらないのかもしれません。しかしPTSDと呼ぶべき重度の症状に悩まされるような人々は実際に存在するだろうということは私はイメージすることができます。
 

「心」の否定

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月 5日(水)11時53分56秒
   <行動派を主流とする心理学者が「心」の存在を否定している>には、
ボクは詳しい情報をもっていないのですが、充分に理解できる話ですね。
しかし、貴見のとおり、存在を否定するのではなく、研究対象にするべきでしょう。
もちろん、心的な現象は<胸部>にある心ではなく、頭脳の働きによっておきるのだから、
生理学や化学やコンピューター科学などの研究対象になっているのでしょう。
とすると、心理学は心をどのように研究できるのでしょうか。
研究できないから、心はないということになるのでしょうかね。
正直、ボクは心理学を不審の念で見ており、経験科学の範疇に入るのか疑問に思っています。
心理学そのものではなく、心理学の適用の問題かも知れませんが、PTSDにも疑問を感じます。
たくみ
 

行動派の「心」の否定

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 4日(火)15時35分58秒
  余談になりますが、心理学関係で一つ奇異に感じている事柄があります。

それは行動派を主流とする心理学者が「心」の存在を否定していると言われることです。これは考えてみればある意味では理にかなっています。というのも、行動派は自らのたずさわる研究を純粋に科学的なものにすることにこだわっています。しかし「心」は誰の目にも映らず、科学的な観察の対象とすることができません。そのため行動派は「心」は実在しないと考えるようです。

これは実在という言葉の定義しだいで、実在するともしないとも言えてしまう事柄ですが、私が考えでは、心の存在を否定することは、お金の存在を否定するのと同じような事だと思います。

お金はたしかに人間社会の一時的な共同幻想としてのみ、お金として機能するモノです。言い替えれば、人間の主観の産物であって、自然界にそれ自体として客体的に実在する存在ではありません。そのためお金は科学的に実在するモノではないという言い方も成り立つと言えます。しかしお金は実在しないのだから、科学の対象ではないとして切り捨ててしまうと、経済学は成り立ちません。それにいくら科学者がお金なんて本当は無いんだと主張したところで、お金が我々人間にとって重要な意味を持つ実在として存在することは否定することのできない事実です。だから経済学者はお金を無いものとしてではなく、それが現に有るものとして研究対象にしています。

そうした観点からすると、行動派が「心」は存在しないという立場にたつことが非常に奇異なものに見えてきます。「心」が存在しないのではなくて、本当は「心」を研究対象にしていると認めれば自分たちが科学者で居ることができないのでそれを無いことにしたいのではないか。そんな風に穿った見方をしてしまいます。
 

たくみさんへ

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月 4日(火)02時42分5秒
  たくみさん、こんにちは。ご返信ありがとうございます。

私は大学で科学的な考え方を学んで以来、世間で似非科学的なインチキな物事が広まっているのを見ると不快感を抱くようになりました。一方でそれとは矛盾するようですが、科学的な考え方の持つ限界についてもより強く意識するようになりました。

河合隼雄さんのあげた例のように、人から恋の悩みをうち明けられて、それに対して厳密に科学的に答えを出そうとするのは土台無理な話ですね。科学のルールでは科学的に扱えない事柄は科学の対象にしない訳ですが、そうすると人間の精神的な問題であっても、科学的である事にこだわる限りは、関与することができない領域が多く生じることになります。

隼雄さんのように、自分が科学者であるかどうかよりも、目の前の相談者の心の悩みを少しでも軽くさせるための学問的なヒントを提供したいという学者にとっては、行動派のアプローチよりも深層心理学的なアプローチのほうがよほどに役に立つということがたしかにあるのだろうと思います。

とはいえ、行動派にも関心があるので一度それなりに学んでみたいと考えています。ネットで紹介されていた「行動分析学入門」という書籍を買ったのですが、結構分量の多い書籍で読み通すにはかなり時間がかかりそうです。
 

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