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悪い癖

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月20日(木)23時27分18秒
  どうも私は普段いい加減な人間なのですが、変に硬いところがあります。普通の人が「まあまあ、このぐらい普通のことだろう」と思うようなことでも、「いやそれはちょっと酷いんじゃないか」というようなことをよく思う訳です。ただそんな事を細かく言い始めたら切りがないので、硬くなりすぎるのも問題だな感じております。

研究の世界というのも随分厳しいものだなとの認識があり、特に一流の研究者には率直に敬意を覚えるので、つい立派な仕事に対しては感情移入してしまうところがあります。立派な仕事というのは非の打ち所の無い仕事という意味では無く、常人の及びうる範囲を越えているということです。

ユングは人生の最も苦しい時期を乗りこえた時に後の自分の人生は公的なものへ捧げたものだと思って生きていきます。その過程で彼の心理学が体系づけられていきます。ところがフロイトは対称的に自分のために生物学者から臨床家になるのです。というのは熱烈に愛した恋人と結婚するためにお金を稼ぐ必要に迫られたからです。こういう所は普通の人ですね。そういう二人の対称性みたいなところにも、個人的には興味が惹かれています。
 
 

信仰と方法的懐疑

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月20日(木)20時01分6秒
  たくみさん、こんにちは。

>科学も詰まるところは信心だと言ってしまえば身も蓋もないのですが、信じると言うことについて考えています。しかし、信じるというのは思考の停止ではないでしょうか。

私は科学的な学問が宗教から離れていった重要な地点はデカルトの方法的懐疑からだと思います。一見、常識的に疑う必要が無さそうな事柄さえともかく疑ってかかってみてこればかりは間違い無く正しいと認めうる知見から出発して、さらに絶対に疑い得ないと確認できる知見だけを積み上げていく。それが科学的な方法論の出発点になっています。

ところがこの方法的懐疑さえ、そのまま純粋に徹底していれば、学問を永遠に停滞させる要因になります。それが科学は、「この辺りで良いことにしよう」というお約束を含んだかたちで真理を積み上げてきました。比喩的に表せばこういう形になります。

地上に立ってワイングラスを手にしている男がその手を離せば、ワイングラスは落下し地面にぶつかって割れる事が目に見えています。しかし本当にそうか、いつもそうかという事を疑えば確かめ無くては心もとない。そのためこの実験を100回、1000回、1万回と繰り返していきます。そして科学はあるところで、「もうこの辺で良いだろう。良いことにしようじゃないか」と言い始めます。1万回試して1万回正しければ統計的にも有意だし、とりあえず真理であることにして置こうじゃないかと。

ただし、こういう「お約束」は利便性を考慮した科学の方便に過ぎません。極端ではありますが哲学的にはワイングラスとは何ぞや、たしかに有るのかといったところから疑わなくてはなりませんし、それを除いても、1万1回目に地球が爆発して消し飛ばない保証などどこにも無いのに1万回試したら真理だなどという「お約束」には何の根拠も無いのです。

そうした意味で、科学にも「この辺で信じようじゃないか」といった「お約束」が織り込まれているのは事実です。ところが宗教は「疑いなさい」ではなくて「信じる者は救われる(信じなさい)」の世界です。

フロイトの論考についていうと、(本人の意図せざる飛躍が含まれていないとは言えませんが)方法的懐疑に従っています。つまり実験的にこういう事は間違い無く言えるという地点から出発して、そうであるならば論理的にこういうものがあると考えざるを得ない、という思考の積み重ねになっているのです。そのような研究であるからこそ、彼の研究を科学的に批判・検討して、その上に新たな学問的知見を積み上げていく事が可能なのです。

ただこれは「フロイトの研究は科学的だ」「だから絶対に正しい」「正しいと信じるべきだ」という意味ではありません。フロイトの理論に対しても方法的懐疑を適用して批判・検討する必要があります。しかし、それとフロイトの主張の疑わしい箇所を取りあげて、ああいうのは宗教みたいなものに違いない、近寄らないで置こう、というのは違う態度です。

近寄るのが正しい態度だという訳ではもちろんありませんが、近寄って検討もしないでどうせこういうものに違いないという先入観やレッテルを貼るのはいかがなものかと思います。そういう飛躍はまったく学問的でも科学的でもないように思います。特にある学問は非科学だとか宗教だという場合にはそういう批判(あるいは中傷)を受ける側にとっては一般に非常に重大な問題であり得るので、そうした発言や批判をする側にもそれなりの責任があるのではないでしょうか。

それから私は思想に宗教的なものを感じることが多いのですが、それは基本的に思想というものが価値観の体系(ないし価値観の理論的体系)という形を取ることが多いからではないかと考えています。つまりある思想を標榜するものは「私は~であるべきだと考える。なぜなら~」と語っており、その価値判断の理由を理詰めで説明をしています。ところがどこまで理屈づけたところで、「~であるべきだ」というのは価値観の表明であるので、主観的に共感するかしないか、誰を信じるか信じないかという話になってきます。その点が宗教の教義の持つ価値観の体系を思わせるところがあるのです。もちろん宗教には思想以外の要素もたぶんに含まれるし、一般的な思想とは性格が異なるところもあるので、思想=宗教という意味ではありません。
 

宗教か

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月20日(木)17時31分43秒
   たくさん書かれているので、何をどう書いて良いか躊躇しています。
ヨムヨムさんもお判りのように、ボクは宗教が無価値だと言っているのではありません。
宗教は大きな力をもってきたし、今でも世界中で力をもっています。

科学も詰まるところは信心だと言ってしまえば身も蓋もないのですが、信じると言うことについて考えています。
言葉を信じないと思考もできないし、明日が来ることを信じないと生きていけません。
しかし、信じるというのは思考の停止ではないでしょうか。
フロイトが思考し続けたことは否定しませんが、ボクも思考し続けたいのです。
そのため、信じる心的な構造にはなるべく近寄らないようにしているのです。

手前味噌ですが、信じないで思考し続けたので「単家族」という概念に辿りついたのだし、「ゲイの誕生」を発見したと思っています。


 

フロイト以後の発展

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月20日(木)01時09分53秒
  深層心理学方面については現在とても関心を惹かれている分野であるので、いろいろと思うところが多く、こちらの掲示版でもコメントを多く書きすぎてしまいました。すみません。

あと一点だけこれまでの話の中で見落としていたポイントがありました。というのは、どうも心理学というと、フロイト(やユングやアドラー)という風に連想してしまう訳ですが、行動派等もとから深層心理学の枠外にある心理学学派や、フロイト以後の精神分析学各派の発展の仕方などといった部分についてはほとんど念頭から外れていました。

そのためフロイトの精神分析をもとにフロイトの心理学を考えたり、批評することはできても、フロイトをもとに心理学一般を語ることができないという点を忘れていたように思います。というのも、精神分析に限っても主にアメリカの学派は精神医学との交流研究が活発でほとんど精神医学と精神分析とが一体となっているのとは対象的にイギリスの学派は精神医学と精神分析とはまったく交流の無いままに異質の分野として並存しているなど、同じ精神分析のなかでも大きく違っているようです。心理学方面というのも、ずいぶん裾野が広くて興味の尽きない分野だと思います。
 

宗教との混同について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月19日(水)22時15分36秒
  おそらく、たくみさんが心理学を宗教じゃないかとおっしゃる際には、宗教にも価値があると認識しているので侮辱的な意図はないのだろうと思います。ただこれには微妙な問題を感じます。

私は以前、中国を旅行中にイスラエル人の旅行者と知り合いました。彼は日本人は漢字を使うらしいので中国語を話すのだろうと思って旅行中の私を捕まえたわけです。

その彼の認識によると、中国も韓国も日本もみんな一緒くたに見えて違いなどわからないということでした。私は様々な面で中国と韓国と日本は違うと認識していたので、このイスラエル人の君たちは中国人と一緒に見えるという認識には驚くと共に、考えてみれば彼らから見えれば相違点よりも共通点のほうが目立つのだろうと思いました。

それは自然なことだしやむを得ない認識だと思います。ところが仮に彼が日本人や韓国人はみんな中国人だとまで言いだしたら話はどうなるでしょうか?別に中国人を嫌っていたり、その価値を否定してない人であっても、自分が誰であるとアイデンティファイしているものを全然違うものと一緒であると括られるのは、それ自体、不当で侮辱的なものでありえます。

特にユングとは事なり、フロイトは可能な限り科学的な方法で深層心理学を追求しようと努力した科学者ですから、簡単に宗教と混同されるようなことは望まないことでしょう。

心理学が宗教的な学問であったのではなくて、心理学を押し広げた思想の分野(あるいは思想的側面)になると、宗教的な色彩を帯びるところが出て来るかと思います。特に思想という世界そのものが科学的というより宗教的な世界に近いように思います。もちろん科学にも思想性があり、その思想性の中には宗教性が含まれています。
 

宗教・小説・心理学

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月19日(水)21時16分1秒
  人間の心を扱うという面では、宗教・小説・心理学には互いに関連性があります。

このうち、「宗教」と「小説」には広く捉えれば「作り話で人を癒す」という側面があります。ところが「心理学」については、これは「作り話で人を癒す」ものではありません。もしも心理学理論を作り話に過ぎないと評するのであれば物理学などの科学理論もまた同程度に作り話に過ぎないことを認めなくてはなりません。理論というのは、あくまでも確からしいものの見方です。

このように云うと「宗教」と「小説」とは同じもののようですが、実際には小説の用いるフィクション(虚構)とは本当の事(真実)を表現するためのものです。そのため小説は嘘をつくことで(読者を騙すことで)人を癒すのではなく、本当のことを表現することで人を癒す側面があるということです。

そのようにいえば、「宗教」的な説話のなかにも真実を語ったものがあるではないかとの疑問を受けるかも知れません。たしかに宗教のなかにも学究的な側面があり、教義も嘘をついている側面ばかりではありません。しかしその人の心を癒す上での方法において嘘(作り話、輪廻転生、天国と地獄、極楽浄土など)を信じさせる(あるいは信仰する)という事に依存しているという面で、宗教は小説や心理学とは異なります。
 

人間フロイト

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月19日(水)19時30分37秒
  フロイトの孫弟子にあたる小此木啓吾さんが『フロイト』という著書でおもしろい紹介のしかたをしています。特長の一つは解釈に決着のつかない議論のつづいている隘路は避けつつ膨大なフロイトの研究分野の全体像を示すと共に、可能な限り生の具体的なもの(資料)を見せるという点。もう一つは読者と同じ人間、生活者としてのフロイトを紹介するということです。

この人間フロイトを見せることに重点をおく意図は読み進む内によくわかりました。フロイトといえば、一般には、汎性欲論といったような突飛で奇異な印象を抱かせる学説を唱えた人といったレッテル的な先入観で見られることが多いです。

そうした学者フロイトを批判する際に我々がつい忘れてしまうのは、彼もまた私たちと同じように時代的制約や経済的・金銭的制約などによって縛られた生身の人間であったという事実です。こうした外的条件を度外視して、フロイトを批判すればかなり好き勝手に物を言えてしまう訳ですが、その時代的・社会的・経済的な制約を無視したところで批判を加えれば、これはまったくの無い物ねだりに堕しかねません。そのような意味で、小此木啓吾さんの紹介の仕方は非常に興味深いものだと感じました。
 

症例ミス・ルーシー・R

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月19日(水)18時50分3秒
  ミス・ルーシー・Rについての症例報告においても、フロイトは自らが創始した病理学的理論に基づいて診断をくだし治療行為を行っています。

フロイト自身は元々、生物学者で神経系の組織学的研究(神経組織の構造の研究)をしていた人で、科学万能主義者です。精神分析の理論的な研究も可能な限り、科学的に取り組もうとしています。それはフロイトの病理学的論考を読めば、これを宗教まがいのいい加減なものだと批判できる科学者はいないでしょう。アインシュタインですら、フロイトの研究に感銘を受け、敬意を表しています。

しかしミス・ルーシー・Rの症例にしても、現在の科学的・学問的な考え方に基づいて批判的に検証し、改善し、発展させていくべき余地が見られない訳では無いと思います。

とはいえ「この点が不十分である。だからフロイトは無価値だ」という批判の仕方もしばしば見られるのですが、そうした批判をする人は、「それではフロイト以前にいったい誰がより科学的にマシな病理学的理論を提出することができたのか」を考慮する必要があると思います。あるいは、自分がフロイトと同時代により、科学的に理想的な仕事ができたと言えるのかどうか。
 

ミス・ルーシー・R、外的適応と内的適応

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月19日(水)08時44分36秒
  >ボクの立っている考え方は、社会とか状況といった外部が先にあって、外部からの拘束性が当人の思考を大きく形作っていると思っています。心理学は個人の記憶の中だけに収斂していき、外部への広がりがないように感じます。

マルクス的な下部構造が上部構造を決定するという認識を連想します。しかしそれよりも広い意味合いで、環境条件が個人の意識のあり方を強く規定しているとの意見だと思います。

私はフロイトの取り扱ったミス・ルーシー・Rという女性の症例を思い起こしました。この女性はある工場主の家で住込みの家庭教師をしていました。ある時期から主観的な嗅覚の異常(客観的な匂いが無いところで臭気を感じる)を訴えて診察を受けました。

手短に結論をいうと、この女性は奥さんに先立たれたこの工場主に対して内心密かな恋心を抱いた気持ちを抑圧していたところ、いくつかの事件をきっかけとして、この主人から自分が愛されていないことを知ったためにショックを受けていたのです。彼女は「焦げたプディング」のような匂いを繰り返し感じ続けるのですが、それはそうしたショックを受けた事件の際にその場で匂っていたものでした。

彼女が自分の恋心を抑圧して自覚できなかった理由は、この亡くなった奥さんは自分の母親と縁のある人で、彼女が亡くなる間際には(家庭教師として)子供の育成を見守ると約束していたからです。そのためその後、彼女は自分の恋心を抑圧した状態のまま、失恋体験を繰り返すという複雑な状況にあったのです。

この場合、彼女の失恋体験というのは外的な条件であって、分析家がそこに割って入って、工場主と彼女との恋仲を取り持つというようなことはできません。そしてそれは分析家がやるべき事柄でも無いと思います。たしかに失恋という外的条件が彼女の症状の直接的な引き金になったのですが、こうしたケースの場合に分析家ができる事は、深層心理的にどういう事態が発生したのかということを洗い出して、彼女に抑圧の存在を知らせ自分の身に何が起こったのかを悟らせるということです。ミス・ルーシー・Rの場合は自分の慕情を認めたうえで、自分の心のなかで片思いを続けると思い定めることで症状が収まって行きます。

もちろんこれはコンプレックスと抑圧が分かりやすく出ている症例としてあげられたもので、こんな風に患者が意識をかえるだけで簡単に神経症が治りますよという話ではありません。しかし外部からの拘束性が問題を起こしているはずなのに個人の記憶を見るのは無意味ではないかとの疑問には答えられているケースではないかと思います。

それからユング派の考え方には、「外的適応と内的適応」というものがあります。外的適応とは周囲の外部環境への適応の問題です。例えば転校生が新しい学校で友人を作ってうまく溶け込めるかどうかという問題です。内的適応というのは、この転校生が友達もできて成績もよくて外的にはうまく適応しているのに神経性の下痢に悩まされるような事態がしばしば起こるわけです。これは外的に適応することに必死になるあまりに本来の自分らしさという自分の内面とのつながりがおろそかにされ過ぎたために、内的な要因で適応障害を起こすという事例です。

この外的適応と内的適応とはどちらかだけを達成すれば良いというものではなくて、メンタルヘルス上、どちらもが相互に関連する非常に重要な問題です。心理学は個人の内面だけを問題としていて外部との関係は切れているとか度外視しているということは無いと思います。
 

古い時代の建築技術

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月18日(火)23時57分10秒
  同じ認識をたくみさんの専門である建築の分野に喩えて見ますと、古い時代の建築技術に対する感慨といったものに近いのではないかと思います。

古い仏教寺院の木造建築物に限らず古い時代の建築技術には現代の建築技術の水準から見れば限界も大きく原始的で、非合理的な部分も見られると思います。しかしながら、重機も釘もなかった「この時代にもうこんな物まで建てることができたのか」という観点を持ち込むと、むしろその劣った性質よりもかえって現代の技術を上まわる美質のほうに関心を引きつけられるところがあろうかと思います。

現代の建築家が構造力学的知識において古い時代の仏教寺院に見られる水準が如何に未熟であるかを笑う(あるいは批判する)とすれば、それは妥当でフェアな認識であるのかについては疑問が生じます。
 

女性論についてのフロイトの認識

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月18日(火)22時11分25秒
  フロイトの女性論については疑問を感じるとお話しましたが、それについてフロイト自身の認識が語られている箇所がありますので引用してみます。『続精神分析入門』の第三十三講の結びの文章だそうです。

「我々は女性を、その本質がその性的機能によって規定せられる限りにおいてのみ記述したのであります。この影響はもちろん非常に遠くへ及びますが、しかしわれわれは、一人一人の婦人がその他の場合には人間的存在であるであろうことを忘れは致しません。もしあなた方が女性的性質に関してより多くのことを知りたいと思われますならば、ご自身の人生経験にお尋ねください。あるいは、詩人にお問い合わせになってください。あるいは、学問がより深いかつより善い関連のある情報をあなた方に提供しうるまで、どうかお待ちになってください。」

フロイトとしては自分が学説として主張した部分に関しては正しいものだと認識していたけれど、それが女性論についての唯一の絶対的で完璧なものではないということも同時に認識しているように見えますね。フロイトが学説として語った女性論が根拠とされて、その後の女性論に誤った歪みがかかって負の影響を残したというような観点もおそらく充分にありうるものかと思います。ただ同時に、それが完全に間違ったものであったと仮定したにしても、哲学的あるいは科学的もしくは思想的な論考というものは、先人が自らの及ぶ範囲の能力と知見でもって緻密に思索した結果を、次の世代の者が吟味し、取捨選択し、あるいは修正したり、洗練することによって、より確からしい、まっとうな認識へと深化、発展して行きます。そのため私としては、フロイト派よりもユング派の理論に納得しやすいのですが、ユング派とは考え方の異なる部分があるとはいえ、フロイトやアドラーの理論を前提としなければ(それを土台として影響を受けた)ユングの理論もあり得なかったという意味で、フロイトやアドラーの仕事の価値そのものを否定的に捉えるのは難しく感じています。もちろん功罪両面があるとは思いますが。
 

「物語」について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月18日(火)20時54分6秒
  「物語」という言葉にはややこしい多義性がありますね。日常に広く使われる意味合いでは、「源氏物語」とか「平家物語」といった文学作品としての一つの形式であったり、個々の作品を指している事が多いです。それとは別の水準の概念として、「大きな物語」論ように、ある時代・社会の個人や集団の意識を無意識的に支えかつ束縛している世界観や価値観としてのストーリーという意味合いがあります。

割りやすい例は近代以前のヨーロッパ人の精神は基本的にキリスト教という大きな物語によって下支えされ同時に拘束を受けていたという事です。近代化の過程で合理主義的・科学的懐疑が人々に間に広がるに連れて、こうした前近代的な宗教観念は相対的に影響力を弱めました。これにより近代的自我は、宗教的思い込みから自由になる反面、その精神的基盤を失うことで安定性を失い、ある面での脆弱性を抱え込むことになりました。

実はそうした意味での「物語」は、必ずしもヨーロッパ中世を支配したキリスト教のような巨大な物語に限らず、大小様々なものがいつの時代・社会にも存在しています。それがあるために、中国人は中国人らしく、日本人は日本人らしく、韓国人は韓国人らしく、考え・行動するような社会的な特長が現れてきます。

小説はそうした意味での社会的に新しい「物語」を提示することもありますが、基本的には、現在あまり認識されていないこのような「物語」があるのではないかということや、あるいは公的な「物語」としていまこういう考え方が当然のように思われているが本当はそうではないと云うべき場合があるじゃないかといったような事を主題にしている事が多いです。小説が社会的な基礎的な物語を直接取り扱うというのはそのような意味です。顕在化している具体的な社会問題を取りあげることもありますが、基本的にはむしろ無意識的に潜在している「物語」を扱うほうが小説にとってより重要な役割であるように私は思っています。
 

心理学観について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月18日(火)19時08分7秒
  たくみさん、こんにちは。

心理学にまつわる抵抗感や不信感のようなものはもっともだと思います。たしかに持ちようひとつで現実の問題が解消されるわけではありません。それに精神的な病には現実の問題によって引き起こされていると見なせる側面がたぶんにあるはずです。

そしてたくみさんが心理学に対して抱いている印象については、「そういう面もあるけれどそういうものではない」というような返答になってしまいます。というのは、(深層心理学に限ると)フロイトもアドラーもユングも、心の病を本人の気の持ちよう一つでなんとでもできるような簡単なものだとは主張していないからです。そういう面もあるというのは、クライアントの抱えている金銭問題だとか恋愛問題だとか、人生上の現実問題については(基本的には)心理療法家が立ち入るべき問題ではなく、最初からそこへの直接の介入は断念されているからです。その上で心理学にできる事柄が追求されています。

例えば今日、エリク・エリクソンの提出したアイデンティティの確立とライフサイクルという概念は一般に広く参考にされている心理学的知見の一つかと思います。アイデンティティの確立とは青年期の代表的な発達課題の一つでウンヌンという理論です。青年期以降のすべてをアイデンティティの確立の問題と見なすことはできないにせよ、こうした理論が現実の心理的な生活課題を考える上で非常に重要な示唆を与えることも否定できないように思います。アイデンティティが全てではないけれど、たしかにアイデンティティの課題は無視しない方が良いという意味で重要性を感じます。そしてこのエリク・エリクソンのアイデンティティの理論もまたフロイトの理論を発展させたものになっています。

それから通常、幻聴が聞こえるというような症状が見られると、心理学はそれを取り除こうとするものだという認識があると思います。私もそういう先入観を持っていました。ところが実際にはそうでもないようです。先日あげたユーチューブに載っている河合隼雄さんの講演でも出て来ますが、そういう症状を取り除こうとする過程は、本人の自我に多大な負担を強いるのである場合には致死的な危険を伴うそうです。それでむしろ症状を取り除かないほうが良いと見られる場合には、療法家はクライアントにそのことを説明し、本人に症状と付き合って生きて行くか、それともあくまでもそれを取り除く分析を受けるのかを決めてもらうようです。

それから、神経症の原因の期限を過去に求めるのはフロイト派の主とした特長だと思います。アドラー派は目的論的な考え方をするので、未来に向かっての目標がどう妨げられていて症状として出ているのか、という捉え方をします。ユング派は症状を発症する素因の一つとして過去からの影響は否定できないと認めるものの、目の前の症状は基本的に直近の現在の課題として認識します。この事が療法におけるフロイト派の手法とユング派の手法の違いにもつながっています。

例えば患者の語った話題Aが注目すべき内容を持っていると、フロイト派は話題Aで思い出す何かを尋ね、話題Bがでると、話題Bで思い出す何かを尋ねます。そうすると、A→B→Cと時系列を持つ連鎖が追いかけられることによって患者の抱える様々なコンプレックスが表面化してきます。これは患者の意識を過去へ過去へと掘り下げていく誘因にもなります。

ユング派では話題Aに注目すべき点を認めれば、話題Aで思い出す(連想する)何かを尋ね、話題A1が出て来ると、続けて話題Aで思い出す別の何かを尋ねます。すると、A1、A2、A3という素材が出て来ます。この方法は現在クライアントの抱えている症状、問題に直接関係するコンプレックスを見つけ出すための手法です。

>恋愛は近代の産物だとはよく言われます。

恋愛感情のようなものは近代以前にもあったはずだというのはその通りだと思います。例えば紫式部の源氏物語にしても、あれは主に恋愛をテーマとした物語です。

ただ私が述べたのはそういう意味では無く、自由恋愛という価値観・概念そのものが存在しないという状況のことです。別の例でいえば、職業選択の自由の無い時代、親が百姓なら子供も百姓になる時代には自分にあった職業を見つけ出さなくてはならないという観念そのものが存在しないということです。それは例えば江戸時代の百姓の子供に、「オレは武士にはなれないのか」という悩みが無かったという意味ではありません。そうではなく(親と同じ)百姓になるのが当然である時代には、「百姓になっていいのだろうか」とか「百姓のままでいいのだろうか」などという意味での職業選択上の悩みがないということです。

同じような事が福沢諭吉の「福翁自伝」にも出て来ます。江戸幕府がいよいよ洋学も学ばなければならないと考え、福沢に経済学の文献を邦訳させます。その際に「自由競争」なる概念が日本語に存在しなかったために、ここでの自由という概念の説明には非常な混乱を来したと言います。それまでの日本人の意識のなかでは「自由に相争う」といえば、戦国時代のような殺し合いの状況しか思い浮かばなかったということです。
 

心理学など

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月18日(火)17時40分37秒
   ヨムヨムさん、こんにちわ。
どうもボクには心理学に対する抵抗感というか、記憶という曖昧なものを
分析の根拠にする拒否感と言ったものがあります。

一般に心理学というのは、当人の心の中というか、記憶の中に入っていって、
現在の問題は本人の過去にあると前提しているように感じます。
貴兄のいわれる心像(心象?)は理解しますが、本人の記憶をたぐってみても、
また記憶以下の層を探ってみても、現実は何も変わらないのです。
気持ちの持ち方を変えただけで、気分が晴れるとか、暮らしやすくなるとか言われると、
それって宗教じゃないかと思えてきます。

ボクの立っている考え方は、社会とか状況といった外部が先にあって、
外部からの拘束性が当人の思考を大きく形作っていると思っています。
心理学は個人の記憶の中だけに収斂していき、外部への広がりがないように感じます。

恋愛は近代の産物だとはよく言われます。
しかし、他の人を好きになる心理というのは、古来からあったと思います。
農地が生きる基礎であった時代が長かったのですから、好きだという感情に従って生きると生活ができなかった。
それが、戦後になって個人単位で稼げるようになったので、
好きという感情に従って暮らしが成り立つようになったのだと思います。
 

余談ながら

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月17日(月)17時48分0秒
  あるいは蛇足かもしれませんが、フロイトについて肯定的に捉えるべきか、あるいは否定的に捉えるべきかについては私はどちらでも良いのではないかと思っています。無意識についての見方についても、フロイトのように否定的な立場を取ることによってはじめて見えてくるものもありますし、ユングのように肯定的な立場を取ることによってはじめて見えてくるものもあるように思います。

とはいえ、ある場合にはこうした歴史的な人物については肯定的にも否定的にもバイアスのかかった評価をされることが非常に多く、賞賛や批判のなかには的外れであったり、不当であったり、単純に誤解をしていると感じられることもしばしばあります。それは例えばフロイト批判やユング批判の言説のなかでも時折見られるものです。英雄崇拝のように虚像を祭り上げるのも、スケープゴートのように誰かを卑しめるのも、私たち人間の持っている基本的な習性ですが、時にそういうものが行き過ぎてしまうのを個人的に残念に思うことはあります。

たくみさんの著書で老人が暴力的になっている傾向について語ったものがあるようですね。私の身内にもそういうことがあります。昔からお世話になった叔母がいるのですが、彼女は長年連れ添った旦那さんに先立たれて、私の家の近くのアパートに引っ越して来ました。老後の一人暮らしにはストレスがたまるものらしく、いつもイライラを溜め込んでいるようです。それで私たちには親切なのですが、郵便配達の人とか歯医者さんだとか近所の人だとか、会うといつもそうした人たちの悪口を聞かされます。その時の叔母の顔はまるで鬼婆のようで、優しかったあの叔母とは別人であるかのような印象です。

それで彼女についての私の印象は単純な「優しい叔母さん」からだいぶ修正を迫られました。叔母は例えば歯医者のように、相手が悪く無い事柄でも相手の落ち度だとして相手を全否定するような物言いをします。相手の部分をとりあげて全体を否定するのですけど、どうも私の印象では部分が悪いから全体を否定しているのではなく、全体を否定するために部分を見つけ出したり作り出しているように見えるのです。

それと同じ仕方で彼女を捉えると、私は彼女を受け入れることが出来なくなります。そのため繰り返し彼女の鬼婆の顔を見ることがあっても、それを彼女の全体だとは捉えずに、なるべく忘れるようにしています。
 

概念と心像

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月17日(月)16時32分44秒
  「概念」と「心像」の層の違いは、例えば対人恐怖症の患者に対して「人間は怖くないのだ」と言葉で語り聞かせてもまったく効果がないということにも現れています。それは本人が頭で知的に(概念的に)同意して納得したとしても、症状を消し去ることができません。なぜなら、その患者を捉えているのは概念ではなく心像(心的イメージ)の層であるからです。

これは小説というものが、どうしてわざわざ物事を描かなくてはならないのかという点にもつながっているように思います。物事を抽象的な言葉でわかり易く語るのは非常に便利です。説明したいことはそのような抽象的なメッセージで一言で語ってしまえば良い。だとすれば、小説や物語などという作るのも読むのも時間のかかる面倒なものを、我々は人間は必要とするはずがありません。しかし我々は「描かれたものを見る」ことに引きつけられます。それは我々にとって概念の層だけでは不十分だからでしょう。心像に対して揺り動かすものを我々は必要としているのだと思います。
 

小説の影響

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月17日(月)16時11分27秒
  たくみさん、こんにちは。

古典的な偉人についての話の具体例のうち、私はたまたま小説家であるフローベールを取りあげました。しかし例えばそれは福沢諭吉であっても主旨としては同じことなのです。

また小説の影響については、政治・経済的イデオロギーと比べてより小さなものかについては、個々のケースやものの見方によっても変わってくると思います。小説は言語と(社会的な)物語そのものを直接に取り扱うので、その影響は表層的なものではなく、根源的・基礎的なものになります。

例えば言語の側面に関して述べますと、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ言語においても現在の日本語においても、自然発生言語というよりも近代化の過程で人工的に作られた言語である性質が強いです。特に書き言葉は意識的・人為的に作られた性質が強いです。それは江戸時代以前の日本語文献と現代の我々の書く日本語の文章がいかに異なったものであるかにも直接的に現れています。そしてそのような新しい言語を確立するのに小説は中心的な役割を果たしています。

それから社会的な基礎的な物語について述べますと、これは小説だけが作り出して来たものではありません。しかし小説(物語)が中心的な大きな役割を果たして来ていることには違いがないと思います。例えば現代の我々の多くは人生のなかで恋愛というものの大きな課題について悩んだり苦しんだり、時にはそれが人生の醍醐味であるかのように捉えながら生きて行きます。ところが冷静に歴史を振り返ってみますと、こうではなかった時代・社会というものはたしかにあったと考えることができます。現代の我々一人ひとりは自由恋愛を通して各自の伴侶を得て、愛によって結ばれるという(社会的な)「物語」を無意識のうちに刷り込まれています。だからこそ、我々は恋愛をするのが当たり前で、良い恋愛をしなくてはならないと思い込んで生きるのです。そのように人間の思考や行動を基礎的に規定し影響をあたえる「物語」において、小説(神話などの物語を含む)は政治・経済的イデオロギーよりも意識のより深い層につながっていると思います。

深層心理学の世界では認識の知的な理解の層とより深い層とを区別しています。知的な理解の層は言語を用いた概念によって頭のなかで理知的に把握するような理解の仕方です。しかい人間はより深い層での認識システムをもっており、むしろこちらのほうがより強く根源的に人間を捉えています。それはユング派では「心像」の層として語っています。

知的な理解というのは例えばM・L・フォン・フランツというユング派分析家のクライアントで、知的な男性のかたがいたそうです。彼は自分婚約者の話をしばしば語ったのですが、どうもその相手の女性には重度の精神病を抱えているようである。それでフォン・フランツはあるとき勇気を出して、彼にあなたの婚約者は重い精神病だと思うと自分の所見を伝えます。しかし彼は事も無げに私もそうだと思うと言います。自分でも不審に思い、本で勉強したから、それがどんなものだかはわかると言うのです。この青年の理解は、分析家であるフォン・フランツにとっては「まったくわかっていない」ものでした。

政治・経済的イデオロギーはたしかに直接的で目に見えやすい形で影響を表します。しかしこれは意識レベルでみれば、まだ表層の部分、知的理解の水準での影響になります。したがって60年代には一気ににわか的にマルクス主義への傾倒が広がったのに、その政治の季節が過ぎてみれば、それは個人の精神に深く根付くことなく、容易に過ぎ去ってしまうことが起こります。

とはいえ個々の小説が社会的な大きな(あるいは基礎的な)物語の部分にどれくらい深く影響を及ぼしうるのかについては、具体的に表すのが難しい面があります。しかし例えば、フロイトがマルクスのように影響を与えたのだとすれば、フロイト及びその心理学に、文学が直接的な影響を及ぼしていることも考慮する必要があろうかと思います。「エディプス・コンプレックス」はギリシャ悲劇の『オイディプス王』になぞらえたものですし、フロイトはシェイクスピアやゲーテなどからも深く影響を受けています。
 

フロイトとマルクス

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月17日(月)14時54分17秒
   ヨムヨムさん、こんにちわ。
確かにある種の小説にフロイトなどの影響があることもあります。
そして、フロイトが古典的な偉人であることは間違いありません。

 しかし、フロイトは小説家と違って、実際のというか現実のと言うか、
良きにつけ悪しきにつけ様々な影響を与えました。
その影響の与え方は偉大な小説家よりも、マルクスに引き比べるようなものだと考えています。

 マルクスの場合、その後のソ連や各国の共産党への影響があります。
もちろん粛正やシベリア送りはマルクスの責任ではなく、それを行った当事者たちの責任でしょう。
しかし、当事者たちの思想的な影響という意味では、まちがいなくマルクスから影響を受けています。

 同様にフロイトの影響も、小説家が与えた影響とは異次元の力をもっていたと考えます。
これはフロイトの責任と言うより、心理学が政治に巻き込まれたせいかもしれません。
そこまで大きく広げなくても、精神病など扱いも近代になると随分と変わりました。
ボクはこの分野の専門家ではないので詳論はできませんが、心理学や精神病の世界はとても恐ろしい側面をもっています。
ヒステリーに対するフロイトの対応は今でも理解できません。
そんなことで、フロイトには距離を取って否定的な見方をしてしまいます。





 

古典的偉人について

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月16日(日)15時43分52秒
  たくみさん、こんにちは。

私は特にこの五年ほどから趣味で小説を読むことが増えてきました。一人の作家の作品を読む限りではよくわからないところがあり、関連を指摘されている他の作家の作品なども読んでいくうちに、次第にそうした小説作品にユングやフロイトの心理学からの影響があるように感じはじめました。そのためユングやアドラーやフロイトについても少し勉強してみようと思いたちました。

たしかにフロイトの男児が去勢不安を抱くとか女児がペニスに嫉妬するといった辺りの学説については、(そういう事例が無いとは断言できないにせよ)一般的に当てはまるものだとは考えにくいですね。

ただ私の中ではフロイトはフローベールやら夏目漱石やら福沢諭吉などといった半ば古典的な偉人の一人という位置づけにあります。フローベールにしろ夏目漱石にしろ福沢諭吉にしろ、私に敬意を抱かせるに充分な業績を残していますが、彼らの著作に触れると、けしてこららの人々の業績や人格に現代的な観点から見ても落ち度がないという風には思えません。やはりどこかしらおかしなところや、立派でないところが見られます。

しかし例えば現代的な小説作法のようなものと照らしてフローベールの小説に時代遅れな点を感じることがあるにしても、「それだからフローベールは読むに値しない」と私が考えるとすれば、私は近代小説からほとんど何一つ学び取ることができなくなってしまいます。そのため権威を盲信することは警戒しつつも、ここから何が学べるだろうかという興味を持ってそうした作品と向きあうようにしています。(とはいえ昔の小説はやはり苦手です)

「河畔望論」と言うコーナーについてのご紹介とお誘いありがとうございます。そういわれて改めて考えてみますと、何をどんな風に書いたものかさっぱりアイデアが浮かびません。深層心理学についてはまだ私も初学者の部類でよくわからないトピックについてのネットで検索するのです。その際にとても詳しく体系的に信頼性の高い情報を載せていると感じられて関心しながら読んでいますと、たとえばユングですと、結構、河合隼雄さんの著書の内容を要約したものをそのまま掲載しているような場合が多いです。私がユングやフロイトについてのレビューのようなものを何か書いてもそれと同じようなかたちにしかならないように思います。この件については何か書いてみたいトピックが無いか考えてみようと思います。
 

提案です

 投稿者:たくみ  投稿日:2014年 3月16日(日)11時54分31秒
  ヨムヨムさん、こんにちわ。
 フロイトとユングを丁寧に読んでいらっしゃるようなので、両者の違いなどとても興味ある指摘です。
ボクはフロイトはともかく、ユングはほとんど読んでいません。
そのため、発言が躊躇されます。

ところで、フロイトの精神分析に関して、些か疑問をもっているのは最初に書いたとうりです。
我が敬愛する吉本隆明が「共同幻想論」で
< どんなに多数の男性と性関係を想定したとしても、ひとりの女性はじぶんの産み落とした子供の父親が誰であるか確実に知っているはずだ。P151>と言っていますが、
この文だけはどうしても信をおけません。
彼からは多くの影響を受けましたが、影響を受けたに留まっています。
 フロイトも同様で、ペニス欠損の件は信じることができません。
フロイトの場合はこの一事をもって、距離を取ることになってしまいました。
PTSD概念もペニス欠損で女性の心理を説明するのと同じ構造のように感じるのです。
去年の引っ越しでフロイト関係の本を処分してしまったのですが、
心理学に深入りしない気持ちの表れだとお考え下さい。

 ヨムヨムさんに提案なのですが、当サイトには「河畔望論」と言うコーナーがあります。
http://coolboy.org/000-guest.htm
ここではお客様に持論を書いて頂いています。
フロイト論かユング論を書いて頂けませんでしょうか。
やがて消えてしまう掲示板だけでは勿体ないように感じます。
 

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