teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


新着順:22/208 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

信仰と方法的懐疑

 投稿者:ヨムヨム  投稿日:2014年 3月20日(木)20時01分6秒
  通報
  たくみさん、こんにちは。

>科学も詰まるところは信心だと言ってしまえば身も蓋もないのですが、信じると言うことについて考えています。しかし、信じるというのは思考の停止ではないでしょうか。

私は科学的な学問が宗教から離れていった重要な地点はデカルトの方法的懐疑からだと思います。一見、常識的に疑う必要が無さそうな事柄さえともかく疑ってかかってみてこればかりは間違い無く正しいと認めうる知見から出発して、さらに絶対に疑い得ないと確認できる知見だけを積み上げていく。それが科学的な方法論の出発点になっています。

ところがこの方法的懐疑さえ、そのまま純粋に徹底していれば、学問を永遠に停滞させる要因になります。それが科学は、「この辺りで良いことにしよう」というお約束を含んだかたちで真理を積み上げてきました。比喩的に表せばこういう形になります。

地上に立ってワイングラスを手にしている男がその手を離せば、ワイングラスは落下し地面にぶつかって割れる事が目に見えています。しかし本当にそうか、いつもそうかという事を疑えば確かめ無くては心もとない。そのためこの実験を100回、1000回、1万回と繰り返していきます。そして科学はあるところで、「もうこの辺で良いだろう。良いことにしようじゃないか」と言い始めます。1万回試して1万回正しければ統計的にも有意だし、とりあえず真理であることにして置こうじゃないかと。

ただし、こういう「お約束」は利便性を考慮した科学の方便に過ぎません。極端ではありますが哲学的にはワイングラスとは何ぞや、たしかに有るのかといったところから疑わなくてはなりませんし、それを除いても、1万1回目に地球が爆発して消し飛ばない保証などどこにも無いのに1万回試したら真理だなどという「お約束」には何の根拠も無いのです。

そうした意味で、科学にも「この辺で信じようじゃないか」といった「お約束」が織り込まれているのは事実です。ところが宗教は「疑いなさい」ではなくて「信じる者は救われる(信じなさい)」の世界です。

フロイトの論考についていうと、(本人の意図せざる飛躍が含まれていないとは言えませんが)方法的懐疑に従っています。つまり実験的にこういう事は間違い無く言えるという地点から出発して、そうであるならば論理的にこういうものがあると考えざるを得ない、という思考の積み重ねになっているのです。そのような研究であるからこそ、彼の研究を科学的に批判・検討して、その上に新たな学問的知見を積み上げていく事が可能なのです。

ただこれは「フロイトの研究は科学的だ」「だから絶対に正しい」「正しいと信じるべきだ」という意味ではありません。フロイトの理論に対しても方法的懐疑を適用して批判・検討する必要があります。しかし、それとフロイトの主張の疑わしい箇所を取りあげて、ああいうのは宗教みたいなものに違いない、近寄らないで置こう、というのは違う態度です。

近寄るのが正しい態度だという訳ではもちろんありませんが、近寄って検討もしないでどうせこういうものに違いないという先入観やレッテルを貼るのはいかがなものかと思います。そういう飛躍はまったく学問的でも科学的でもないように思います。特にある学問は非科学だとか宗教だという場合にはそういう批判(あるいは中傷)を受ける側にとっては一般に非常に重大な問題であり得るので、そうした発言や批判をする側にもそれなりの責任があるのではないでしょうか。

それから私は思想に宗教的なものを感じることが多いのですが、それは基本的に思想というものが価値観の体系(ないし価値観の理論的体系)という形を取ることが多いからではないかと考えています。つまりある思想を標榜するものは「私は~であるべきだと考える。なぜなら~」と語っており、その価値判断の理由を理詰めで説明をしています。ところがどこまで理屈づけたところで、「~であるべきだ」というのは価値観の表明であるので、主観的に共感するかしないか、誰を信じるか信じないかという話になってきます。その点が宗教の教義の持つ価値観の体系を思わせるところがあるのです。もちろん宗教には思想以外の要素もたぶんに含まれるし、一般的な思想とは性格が異なるところもあるので、思想=宗教という意味ではありません。
 
 
》記事一覧表示

新着順:22/208 《前のページ | 次のページ》
/208